秦国の老将軍・白起の恐ろしい史実40万人の兵士を全員を生き埋めにした
昭王の52年、周に伝わった9つの鼎(かなえ)が秦の手に渡り、周が滅んだ。54年、昭王は雍(よう)で上帝の祀りをおこなった。 56年、昭王が没して、子の孝文(こうぶん)王が後を継いだ。孝文王が没すると、子の荘襄(そうじょう)王が後を継いだ。荘襄王が没すると、子の政(せい)が後を継いだ。これが秦の始皇帝である。
ブログに秘められた価値を存分に提供します
昭王の52年、周に伝わった9つの鼎(かなえ)が秦の手に渡り、周が滅んだ。54年、昭王は雍(よう)で上帝の祀りをおこなった。 56年、昭王が没して、子の孝文(こうぶん)王が後を継いだ。孝文王が没すると、子の荘襄(そうじょう)王が後を継いだ。荘襄王が没すると、子の政(せい)が後を継いだ。これが秦の始皇帝である。
関羽と張飛、劉備に忠義を誓ったのは何故? 第7回 「生死を共にと誓いあう「桃園の誓い」 劉備(りゅうび)、関羽(かん...
疫病の流行という不幸を機に、史上初の医学書が生まれることになったのは良かったのか、悪かったのか、何とも言いがたいが、その惨状を後世に残そうという強い意志が伝わってくる。三国志の英雄や、戦場の兵士たちのなかにも、これらの病気が原因で亡くなった人も多かったであろうことを思うと、彼らがより身近な存在に感じられて胸が痛む。
人類と流行病との戦いは、紀元前より始まっている。紀元前5世紀のギリシャ・アテネでの疫病で10万人が犠牲になり、古代ギリシャ文明を衰亡に陥らせた。また2世紀にはローマ帝国に広がった疫病が350万人から500万人もの人々の命を奪ったと伝えられている。病名は不明だが、どんなに文明が発達しても疫病の脅威は常に付いてまわる。
劉邦(りゅうほう)が建てた前漢は、紀元前206年から約200年続いた。だが紀元8年、王莽(おうもう)という人物の陰謀で滅ぼされてしまう。王莽は第11代皇帝・成帝の外戚(がいせき)にあたる。外戚とは、分かりやすくいえば皇后(皇帝の妃)の親族だ。
漢は、いったんは滅びているため「前漢」と「後漢」に区分けされており、三国志の時代は「後漢」末期にあたる。 今回はその漢がどんな国家で、どんな時代であったのか。簡潔ではあるが説明したく思う。 まず「漢字」や「漢民族」に代表されるように、この時代に生まれた文化は強い影響力を持った。中国大陸に住む人は、みずからを今でも「漢人」「漢族」と呼ぶことがあり、その割合は中国の全人口の9割以上を占めるという。
劉備は、後世に小説『三国志演義』の主人公になった。本来、歴史書の『三国志』は曹操やその一族が創業した魏を正当とするが、民間に広まったのは『三国志演義』のほうだ。大衆は小勢力であり、常に敗勢に立たされていた劉備や諸葛亮に肩入れしたのである。ただ、歴史を俯瞰してみれば、その魏を築いた曹一族も、晋(しん)という新興国家を建てた司馬一族にとって代わられ「敗者」となった。曹操も劉備も志なかばに倒れ、中国統一にも遠かった悲劇の主人公である。
一般に「三国志」といえば後者の「演義」だ。小説とはいえ「七実三虚」という割合で史実が7割の比率を占める、リアリティのある読み物として広まっている。正史・小説にかかわらず、三国志の面白さは、個性豊かな登場人物たちが多く、それぞれが魅力を持っている点であろう。