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「和同開珎 」を作った技術長官は羊太夫でした
これは、群馬県にある国指定の特別史跡で、日本の3古碑の一つである多胡碑と、それを収蔵する覆屋です。 多胡碑は奈良時代の和銅4年に「多胡郡 」が置かれたことを記念する石碑ですが、この多胡碑に書かれた「羊」が、地元で羊さまと呼ばれている羊太夫のことを指し、羊太夫の事が記されています。
群馬県多野郡吉井町のあたりは、昔は多胡郡と呼ばれていましたが、羊太夫はその多胡郡の統治を任された実在の人です。
羊太夫は、渡来人である秦氏の一人であると考えられており、高度な技術力を持ち、日本最初の銅銭と言われる 「和同開珎 」 を作った技術長官でした。
秦氏の特徴として、養蚕、絹織物、新羅系の精銅技術があり、九州北部・近畿の銅山などとの関係も深いとされています。
また、 「胡 」 は古代の中国人が西域地方のことを呼んだ呼称で、楊貴妃も胡人と呼ばれたペルシャ系の女性であったとされています。
「多胡 」 の名も、そこに中国西域の人たちが多く住んでいたことを示しています。
この多胡郡のあたりは、昔から養蚕がさかんで、遺跡から発見された糸をつむぐ紡錘車の数は、全国一を誇り、都のあった奈良県には 「多胡郡 」 で織られた布が残っています。
絹織物を最初に日本に持ち込んだのは秦氏であり、 「機織(はたおり)」 の技術を発展させてくれました。 この 「機織 」 のハタは秦氏のことであり、機の漢字は機械を使った事からの後世の当て字とされています。
奈良の正倉院に残る掛布屏風袋(かけふびょうぶたい)の銘文に、 「上野国多胡郡山部郷秦人 」 とあることからも、
上野国(こうずけのくに)=今の群馬県には秦氏の人々が住んでいた事が分かります。 群馬県で、養蚕業や絹織物がさかんなのは、多分に秦氏の影響があったと考えてよいでしょう。
「和同開珎 」を作った技術長官は羊太夫でした2
面白くない歴史の教科書では、日本に最初にキリスト教を伝えたのは、1549年に宣教師フランシスコ・ザビエルであったとしていますが、
世界の歴史をみても動乱から逃げるために、人々の大移動があったことは知られるところであり、特に中国大陸や朝鮮半島の動乱を考えれば、
古代から中国西域からきた人たちの集団が、日本に辿りついていたとしても何ら不思議ではありません。
よく、東北地方などで、ヘブライ語に近い言葉を話す村があったり、キリスト伝説がある村の話も聞きますが、職業として科学技術に携わる私の意見では、
論理的に何ら否定できるものではなく、そのような可能性は十分にあると考える方が自然であると思います。
この多胡碑のかたわらの、羊太夫の棺を入れるための石室から、十字架のみならず、 「 JNRI 」 と刻まれた銅版が、江戸時代に見つかり、
松浦静山(1760-1841)が 「甲子夜話(かっしやわ)」 に記録を残しています。
「 JNRI 」 とは、キリスト教徒ならすぐ分かると思いますが、我々信者でない一般の日本人には何のことかよく分かりません。
これはラテン語で、 「 Jesus Nazarenus, Rex Iudaeorum 」 すなわち、 「 ユダヤ人のナザレのイエス 」 を意味する略語であり、聖書によればイエス磔刑の際に、
この言葉がヘブライ語、ギリシア語、ラテン語の3ケ国語で、イエスの頭上に掲げられました。
- 新約聖書(ヨハネの福音書 第19章19節) -