もくじ
秦氏の 集団は 倭国に 至るまで 移動の連続
伊都国と日向神話.「秦王国」から南九州に移住する秦の民
また余談になるが、続いて雄略の税収増加策が載っている。まったく、一筋縄ではいかぬ天皇ではある。
十六年の秋七月(あきふみづき)に、詔(みことのり)して、
桑(くは)に宜(よ)き国県(くにあがた)にして桑を殖(う)ゑしむ。
又(また)秦の民を散(あか)ちて遷(うつ)して、
庸調(ちからつき)を献(たてまつ)らしむ。
前年の十五年には、各地に分散した秦の民を集めて、秦氏の長である秦酒公に任せたのに、
翌十六年には前言を翻して、桑に適した国・県に秦の民を再分散させたのである。
結果として彼らの養蚕技術を広めることで、
そこから生産される絹を税(庸調)として納めさせたので、
当然ながら雄略のもとには、増加した絹製品が一層うず高く積まれることになった。
秦の民は、それこそ散々な目にあったのである。
秦氏の一族は、二つに分類されている
「秦部」とは、秦氏の部曲(かきべ)であるから、秦氏の私有民である。
「秦部」と同じように、「秦人(はたびと)」も秦氏に隷属する人々である。
『古事記』仁徳天皇の事績には、「秦人(はたびと)を役(えだ)ちて」堤や池を作らせた、とある。
秦人を使役して多くの土木工事を完成させたのであるが、
作業の指示命令は秦氏の企画・指令によるものである。
このように秦氏の一族は、二つに分類されている。
「秦氏」と、その私有民である「秦の民」・「秦人」などに分かれる。
秦公宿祢や秦忌寸が秦氏の上層部を形成して、
ヤマト政権と密接な関係を維持する一方で、
秦の民は上層部の立案を実行する労働部隊であった。
このあたりの考証は、『続秦氏の研究』(大和岩雄/大和書房・2013年)に詳しいので、これを参考にしている。
地域独占的な勢力になったのか
先の戸籍調査では、豊前国北部の人口構成比においては、
秦氏の関係者が約85%も占めていた。
この数値は、少し多すぎる感がある。
なぜ秦氏関係者は、このように地域独占的な勢力になったのか。
秦氏の勢力拡大意欲が旺盛であったことが原因かもしれないが、おそらくそれは、
社会制度や信仰に起因するものではないか。
以下のようになる。
天孫降臨の神話に登場する「五伴緒」は、前述のように、
それぞれ得意分野の技術を持って、
朝鮮半島経由で渡来したユダヤ系秦氏であったと思われる。
現代に当て嵌めれば、先進の産業技術をもった人々が
一挙に伊都国周辺に住み始めたのである。
差別を受ける人々
彼らの技術は、農業と異なり、定着性に欠けるものであり、
農民サイドからすればどこか胡散臭く、長く付き合うには肌が合わないところがあった。
高熱処理技術によって土器や金属器を製造する一団は、森林を含めた資源の枯渇によって、
移動を余儀なくさせられる。
天宇受賣のような芸能集団も、日々旅を住処(すみか)とした。
このような移動性集団は、定着民である農民からは、差別を受ける人々であった。
ユダヤ系秦氏の集団は、倭国に至るまで移動の連続であったことになる。
居所を次々に移すことは彼らの宗教的本質であり、出エジプト以来の行動特性であった。
神が約束した地を探し求めて、定住生活を拒否し続けた結果、太平洋に阻まれて、
これ以上は東に進むことができない倭国を永住の地に選んだ、と思われる。
そして倭国の宗教に変質した旧ユダヤ教は、拝所が神社となり、
その地域に生まれた赤ちゃんは、産後の穢れがない祖母に抱かれて、お宮詣りをする。
自動的にその神社の氏子になるのである。