坂本龍馬の薩長同盟は全てロスチャイルドとグラバーで出来ていた

坂本龍馬が設立した貿易商社(亀山社中)は後には海援隊と改めました!

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亀山社中跡亀山社中とは、慶応元年(1865年)に薩摩藩の援助を受けて、坂本龍馬が設立した貿易商社で、後に経営が行き詰まり、

慶応3年(1867年)に土佐藩の援助を受けることになり、その名を海援隊と改めました。幕末の混乱期、幕府と維新軍は競うように欧米の武器や弾薬を購入しており、1865年~1870年に長崎で17万2000挺(241万ドル)、

横浜で32万8600挺(447万ドル)の小銃が日本に輸入されました。

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輸入された小銃では、ミニー銃、エンフィールド銃など先込施条銃が中心でありましたが、スペンサー銃やスナイダー銃など後込施条銃も輸入されています。

ミニー銃、エンフィールド銃、スペンサー銃は、アメリカの南北戦争(1861-1865)で広範に使用された小銃で、戦争終結と共に大量に上海市場に出回り、それが日本にも持ち込まれるようになったのです。

特に戊辰戦争で活躍したアームストロング砲は、1847年に設立し水力用機械を製造していたアームストロング社が、ロシアとのクリミア戦争を機に兵器製造に転換し、

開発したもので、イギリス政府公認となり、この会社はロスチャイルド、ジャーディン・マセソン社
と深い縁があります。

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しかし、1860年以降の軍事費の削減で、政府からの注文も減少し経営難となり、1863年に事業の建て直しを図り、海外市場向けの兵器製造に転換したばかりの状況で、

戦争男爵ロスチャイルドやジャーディン・マセソン社とつるんで、日本に内乱を引き起こし、一儲けしようとしていたのです。

尊皇攘夷の長州藩への報復のため、イギリス、アメリカ、フランス、オランダの4ケ国は、1864年に下関を攻撃し(馬関戦争)、

まるで大人と子供の戦いのごとく、徹底的に叩きのめされた長州藩ですが、ジャーディン・マセソン商会とグラバーは長州藩に武器を売り儲けようとしていました。

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第2次長州征伐の開始間近となる1865年5月イギリス、アメリカ、フランス、オランダの四国代表は「四国共同覚書」を作成しました。

これは日本が明治維新の革命が成立した後、イギリスが独占的に明治政府と貿易するのを牽制する目的があったのです。

この内容は、日本の内戦に対する厳正中立、絶対不干渉、密貿易の禁止で、更には日英通商条約の第三条にも 「軍用の諸物は日本役所の外へ売るべからず」 とあり、

武器を他藩に売却することは禁じられていました。

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しかしながら、長州藩はのどから手が出るほど武器が欲しく1万人の藩士を武装させたいと考えており、最低でも7500挺の銃と軍艦を必要としていました。

また、ジャーディン・マセソン商会や、その代理店であるグラバー商会も何とかビジネスをしたいと思っており、そこで考え出されたのがダミー会社(亀山社中)の設立です。

馬関戦争で長州藩と一戦交えたイギリス政府は、長州への武器ビジネスの許可を下ろさないから、ダミー会社(亀山社中)を通じて長州藩に武器を売却する事により、グラバーは、この問題を解決。

「軍用の諸物は日本役所(徳川幕府)の外へ売るべからず」 という問題に関しては、お金による取引ではなく、物々交換という手段で、グラバーは抜け道を考えました。

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米、麦、塩などによる支払いを認めたのであります。 グラバー商会はそれをジャーディン・マセソン商会に持って行き、それを薩摩藩が買い上げるようにし、

薩摩藩とイギリスとは既に武器の売買で気心を通じていたからこの三角貿易が実現したのでありますが、

そして薩摩と長州とを貿易で結んだのが坂本竜馬の亀山社中であります。

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すなわち、坂本龍馬の仲介による薩長同盟とは、グラバーとジャーディン・マセソン商会が仕組んだダミー会社(亀山社中)による武器取引であったのです。

元々下士の身分で、土佐藩を脱藩した身分の低い浪人の龍馬に、仲良くしなさいと言われて、薩長の大名が、 「 はい、そうですか 」 、となるほど江戸時代の封建制度は甘くはありません。

亀山社中は1865年の5月に設立し、7月には既に7300挺の銃のビッグビジネスを長州と成立させていますが、常識ではこのような事はありえません。

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これは、長州藩の井上聞多(井上馨)と伊藤俊輔(伊藤博文)が長崎でグラバーと会ってミニエー銃4300挺、ゲベール銃3000挺の購入契約の話を既に済ませており、

坂本龍馬の亀山社中はダミーとして通っていただけであるからなのです。

続いての大型蒸気船ユニオン号については、名義は薩摩藩、運用は長州藩、乗務員は亀山社中というリース契約の形をとる事により、うまく長州藩に引き渡しました。

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坂本龍馬は商売をやった事がないのですから、突然にこのような大型の海外貿易の実務が出来るわけがありません。

それ故、亀山社中の実務は、グラバー邸から少し降りたところにある長崎の豪商の小曾根英四郎(こぞねえいしろう)がグラバーによって選ばれていたのです。

すなわち、坂本龍馬の薩長同盟も亀山社中にしても、全てロスチャイルド、ジャーディン・マセソン、グラバーで全て段取りが出来ていて、

それに坂本龍馬が乗せられ、操られていたと言う事が出来ます。

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