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漢の皇帝は、なぜ権力をなくしたのか?第4回
「漢」の一時の断絶と遷都
劉邦(りゅうほう)が建てた前漢は、紀元前206年から約200年続いた。だが紀元8年、王莽(おうもう)という人物の陰謀で滅ぼされてしまう。
王莽は第11代皇帝・成帝の外戚(がいせき)にあたる。外戚とは、分かりやすくいえば皇后(皇帝の妃)の親族だ。
とくに、その父や兄弟が朝廷に入り込むと、野心を発揮して政治に介入することが増えた。
皇帝の義理の父や兄弟にあたる立場を利用し、どんどん権力を強めるようになるという寸法だ。
その外戚のひとりである王莽が、13代目の皇帝・平帝を毒殺。2歳の子を無理やり14代目に据えて傀儡(かいらい)とした挙句、帝位を奪って「新」という国家を勝手に作ってしまった。
だが、王莽の栄華は長く続かず、彼一代で滅びる。そして西暦25年、漢の皇室の血をひく光武帝・劉秀(りゅうしゅう)が、乱れた各地を平定して大陸を再統一。
漢の再興を果たした。「後漢」の成立である。
「前漢」「後漢」とは何ですか?
それまでの漢を「前漢」と呼んで区別するが、当然この呼び方は便宜上のもので、当時は前も後もなく「漢」以外の呼び方はなかった。
また中国の人は、西の長安に都をおいた前漢を「西漢」、東の洛陽に都をおいた後漢を「東漢」と呼び分ける。中国の地理がわかっていなければ、
ちょっと難しいかもしれないが、三国志演義を読んだ人ならピンとくるだろう。
さて、光武帝が再興した漢(後漢)は、それから約200年続く。
しかし、そんな後漢も建国から50年ほどで早くも綻びが見え始める。
2代目である明帝・劉荘(りゅうそう)が48歳の短命で没したのだ。
息子の章帝(しょうてい)は19歳で帝位を継いだが32歳で没し、次の和帝(わてい)は9歳で即位して27歳で没した。
さらに次の殤帝(しょうてい)は生後100日余りで即位させられ、ほどなく落命した。
皇帝は地上(天下)の支配者として天の命令を受けた存在とされた。
つまり誰も逆らえない絶対的な存在でなければならない。
しかし、赤子や子どもにそんな大役が務まるわけがない。
そうなれば皇帝の側近を務める、前述の王莽のような外戚が力を持つのは当然だ。
権力に対する外戚に、反発が起きた
これに反発したのが、正規に登用された一般の官僚たち。
さらに、そこへ宦官(かんがん)も加わった。
あとに述べるが、宦官とは皇帝の身の回りを世話する上で不祥事を起こさぬように
去勢された男性官僚で、中には外戚と同等の権力を持つ者もいた。
建国から半世紀が経ち、第12代・霊帝(れいてい)の時代に「党錮(とうこ)の禁」が起こる。
「清流派」を名乗る外戚や有力豪族が宦官やその一派を「濁流派」と呼んで攻撃し、
排斥にかかったのである。
この両派の争いは宦官一派が勝った。
清流派の面々は捕らわれ、死に追い込まれた。時に西暦169年。
すでに後漢も末期を迎え、曹操や劉備、呂布といった英雄たちも、
この頃には世に生まれていた。
こうして朝廷内の権力争いが続くうちに政治は混乱し、世は乱れた。
それから15年後の184年、三国志の始まりといわれる
「黄巾(こうきん)の乱」が起こるのである。