もくじ
何故「国家」が「社会」にかえられたのか
イエリネックは超観念論的思考の所産として、国家の存在を否定しようと試みる。
国家は感覚的に認識するをあたわず、その制度や活動においてのみ認識できるものであるとする。
そして国家の最終的客観的要素は作用となって現われる人間の間の一定の社会関係の総和であり、より精確にいえば、
人と人の関係に現われる一定の作用の同時または継時の存在であり、これのみが国家の証明できる最終の事実であるとする。
イエリネックの狙いとするところは、「国家」という観念を去勢し、それに代わって「社会」という観念を導入するにある。
戦後日本では、しばしばこの「国家」という観念が「社会」という観念に代えられたということが議論されている。
そのへんの疑問に答を与えるのが、このイエリネックである。
イエリネックは、したがって先輩のオットー・フォン・ギールケのいう有機体説も否定しようとする。
つまりギールケにあっては、国家は実際に存在するものであるから「有機体」を考えるべきであると主張するのであるが、
イエリネックは「有機体」が人間の認識の如何にかかわらず存在すると考えるのは実証的研究の地盤を去ることを意味し、
真理に代えるに詩をもってするようなものと極論している。
これはまごう方なき観念論であり、マルクスの国家否定論と対照的である。
しかし、同じユダヤ人であるマルクスとイエリネックの国家否定論は軌を一にするものであり、ユダヤ民族の大目的に奉仕する論理であることを認識する必要があろう。
イエリネックの役割は「上部構造」より国家の解体へ向かうことであった。
つまり、法理論を活用することである。この目的のために利用されたのが、美濃部達吉である。例の「天皇機関説」がそれである。
憲法学者・法学博士の
美濃部達吉(みのべ たつきち)
東大卒業後、ドイツ留学中にイエリネックに師事。
天皇の大権を狭く解釈する独自の憲法学を打ち立て、
1945年幣原内閣の憲法改正の顧問を務めた。
ところが、イエリネックの深遠な狙いはその協力者、美濃部達吉の無知により、かなりあいまいなものにされてしまった。
それというのは、この「天皇機関説」の受け取り方がイエリネックの当初の思惑をかなりズレてしまったのである。
美濃部は、イエリネックの Organ というドイツ語を単純に「機関」と訳してしまった。
日本語の「機関」という言葉は、マルクス主義者の受け取り方を除いては、イエリネックの当初の狙いを十分反映できない言葉である。
一般には、天皇即国家であったのを、天皇は国家の一機関にすぎないというふうに天皇を格下げしたものであると考えられるようになった。
これは、日本語のもつ「機関」という意味からすれば、むしろ当然かも知れない。
ドイツのユダヤ人の間ではドイツ語の Organ は、抑圧、搾取のための「道具」、「手段」を意味する。
しかし、普通の日本語訳からすれば「機関」ということになろう。
ただ「機関」となると、Organ のユダヤ的意味を完全に伝達しないきらいがあるということである。
もし美濃部がもう少しユダヤ的思考に通じていたら、ノーベル賞(ユダヤ機関が設置運営している)でももらったかもしれない。
イエリネックは、さぞ不満であったことだろう。彼の狙いは、あくまで天皇を抑圧、搾取するものと形容したかったのである。
ユダヤ人のいう Organ は具体的にいうと、支配階級が被支配階級を抑圧、搾取する手段、道具という意味である。
美濃部が「機関」と短絡思考でやってしまったお蔭で、かなり意味あいの異なるものとなってしまった。
天皇は国民を抑圧する手段であるとする宣伝は、かなりぼかされた。
君民共治は、日本の天皇と国民の間にのみ存する理想的政治形態である。
これがある限り、日本の共産主義化は困難と判断したユダヤ勢力は、「天皇制」を絶対悪として宣伝し始めたのである。
戦前はコミンテルンを通じて大々的に「天皇制」打倒のキャンペーンをした。
コミンテルンの日本出張所として誕生した日本共産党に「天皇制」打倒を至上命令として実践させた。
今日に至るも日本共産党が「天皇制」打倒、「天皇制」絶対悪論を振り回しているのは、そのためなのである。
以上のように我々は戦前天皇制の打倒を至高目的としていたのであるが、戦後天皇制が類例のない偉大なものであることを初めて知るに及んで、天皇制の存続を図ったわけである。
この時には天皇制廃止論者が周りに多く、大変苦労したものである。
ここでの我々の努力を評価して頂ければ光栄である。
戦後史の解説書などでしばしばいわれている天皇制存続の理由、「占領政策のため利用する目的で存続させた」といったことが如何に認識不足かということをお分かり頂けると信ずる。
日本共産党はいまだに天皇制を絶対悪と信じている。国会の開会式に天皇が臨席される時に共産党議員が欠席するのは、その現われといってよいだろう。