もくじ
明治の日本はヨーロッパ人の使い走りでレベル
ところが、フタを明けてみると、あらら・・・維新軍こそが欧米に手なづけられ、親欧米の文明開化が明治維新の結果となっていました。
イギリスの傀儡政権が明治新政府といえましょう。 そこで、幕末に活躍したフリーメーソンたちを紹介したいと思いますが、まさにメーソンだらけの明治維新です。
明治維新とは、欧米の啓蒙主義思想から産み落とされた近代フリーメーソンの日本への伝播と言っても過言ではないでしょう。
フリーメーソンの葬儀行進
幕府の弱腰外交に対して、尊皇攘夷の運動が起こり、攘夷テロの嵐が吹き荒れ、あちこちで外国人が斬り殺されました。
この無差別テロに怒った外国人たちは、軍服の上にフリーメーソンの正装であるエプロンをつけ、モーツアルトの「フリーメーソンのための葬送曲」を奏でながら、
盛大な葬儀を示威行為として敢行。 当時の日本の人々は、そのあまりの異様さに驚き、あわてて家に引っ込み、雨戸を閉めたのでした。
ペリー提督
1853年7月8日、フィルモア大統領の親書を携えてきた東インド艦隊司令官のペリー提督はフリーメーソンで、彼が所属していたロッジは、ニューヨークの 「ホーランドNo.8」。
ジョン万次郎
漁に出て遭難し、アメリカ船に助けられ、そのまま船長の養子となり、アメリカで教育を受け、フリーメーソンでもあった名門のデラノ家(ルーズベルト大統領の家系)や名門ペリー家とも交流を持ち、後にアメリカ第30代大統領カルピン・クーリッジも、
「ジョン・マンの帰国は、アメリカ最初の大使を日本に送ったに等しい 」 とまで言い切るまでの人物となり、ペリーとの交渉にタイミングを合わせた如く、1851年に日本に帰国し、
1853年には貧しい漁師の子供であった身分にも関わらず、1853年に幕府に召聘され江戸へ行き直参の旗本となり、アメリカとの通訳に抜擢されたジョン万次郎。
彼の銅像では、左手にフリーメーソンのシンボルである直角定規とコンパスを持っており、ペリー提督の日記にも「 日本語のできる諜報部員を育成する必要がある 」 と、
書かれているように、ジョン万次郎は本人がフリーメーソンであったかどうかは別として、フリーメーソンに背後から操られていた、アメリカ側の諜報部員であった事は明らかでありましょう。
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そして、日本の内乱を予想していたかのように、グラバーは日本にやって来て、長崎に居を構え、ジャーディン・マセソン商会向けにお茶の精製ビジネスからスタートし、
幕末の混乱にあわせて、ロスチャイルドと縁戚関係にあるジャーディン・マセソン商会を通じて、ロスチャイルドグループのアームストロング社、他から武器や戦艦を購入し、
徳川軍や維新軍に売却するようになりました。
また、坂本龍馬が長崎に亀山社中を設立したのが1865年ですが、日本に初めてフリーメーソン・ロッジ(横浜ロッジNo.1092)が創立されたのも同じ1865年であります。
アーネスト・サトウ
アーネスト・メーソン・サトウは、ミドルネームのメーソンが表しているように、正真正銘の石工の家系です。
彼はイギリスの外交官で、駐日領総事ラザフォード・オールコックや駐日公使ハリー・パークスの下で活躍し、明治維新に大きな貢献をした人物です。
この「英国策論」の翻訳が出回り、徳川についていた大名たちは浮き足立ち、維新勢力は勢いづき、明治維新という革命は成し遂げられ、1868年に明治新政府が発足したのであります。
フェリックス・ベアト
幕末から明治にかけての貴重な写真を撮り続けたイタリア人がフリーメーソンのフェリックス・ベアトで、今日の我々が教科書などで目にする写真は、ほとんどは彼が撮影した写真です。
レオン・ロッシュ
フランスの全権大使として江戸に赴任したレオン・ロッシュはグラントリアン(大東社)のメンバーで徳川幕府を支援し、横須賀製鉄所を開かせ幕府の軍制改革に助力しました。
エドワルド・スネル
プロシアのメーソン、エドワルド・スネルは、徳川につき、長岡藩の河井継之助と長岡城(1868年、官軍との戦い)でともに戦いました。
ブリュネ
フランスのメーソン、ブリュネは、榎本武揚ら徳川家臣幹部と共に五稜郭に立て籠もり、最後まで官軍に抵抗しましたが敗北し、戊辰戦争は終結を迎え、イギリス系のフリーメーソンが勝利を手にする事になります。
シャルル・ド・モンブラン
フランス人でベルギーのメーソンだったシャルル・ド・モンブランは、1865年、ブリュッセルで五代友厚と商社を設立しているほど仲が良く、薩摩藩からパリ万国博覧会の事務総長に任命されたりもしています。
グラバー
倒幕側にはイギリス系のメーソンであった、トーマス・ブレイク・グラバーがつき、倒幕諸藩に武器弾薬、艦船などを売り、軍事援助を行いました。
長州ファイブ
長州ファイブとは、幕末に長州藩から上海経由でヨーロッパに派遣され、主にロンドン大学ユニヴァーシティ・カレッジなどに留学した、
井上聞多(馨)、遠藤謹助、山尾庸三、伊藤俊輔(博文)、野村弥吉(井上勝) の5名の長州藩士の事ですが、
長州ファイブがロンドンに留学していた頃、長州では攘夷が真っ盛りであり、長州ファイブも日本国内では 「 攘夷! 」 と叫んでいましたが、
現実はイギリスのジャーディン・マセソン商会やグラバーに買収され、イギリスのエージェントであったのです。
津田真道も、1ケ月後にフリーメーソンとなっている事が記録に残されています。
クラーク博士
ご存知、「少年よ大志を抱け」 で有名なクラーク博士もフリーメーソンで、欧米のフリーメーソンたちと明治維新を成し遂げた明治新政府は、
日本の近代化を図るため御雇い外国人と呼ばれる指導者たちを日本に招き、教育を受けました。
明治政府は北海道に開拓使をおき、その初代長官に黒田清隆を任命しました。 その黒田が招いたのが、マサチューセッツ州のグランドマスターをしていたフリーメーソンのクラーク博士です。
林董 (はやしただす)
日本の外務省の英国大使には、フリーメーソンが多く、日英同盟に調印した林董(はやしただす)駐英公使は、記録に残っている日本人初のイギリスのフリーメーソンメンバーで、ロンドンにある 「エンパーヤー・ロッジNo.2108」 に所属し、