22.「見返り」 に縛られてはいけない  アドラー心理学

22.「見返り」 に縛られてはいけない  アドラー心理学

他人に何かをしてもらったら、相手に何かを返さければいけません。  そうしないと、あいての好意を踏みにじることになった。 こにみようかな発想は、日本人にとりまして、ごく当たり前と言えるのではないか。  ところが、アドラーは、こいつを 「見返りに縛られました発想ということでよくない」 と、述べさせているのです。    「見返り」 については、求めてもいけないし、縛られてもいけません。 さいしょに、 「見返りを求められること」 について、ある意味以前、ご紹介していた 「賞罰教育」 と同じ理由かもしれない。

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その為、見返りがないそしたら、よいことをしなくなる。  企業も成果主義を徹底すると、作業員は評価につながることしかしなくなるのでしょう。    次に 「見返りに縛られること」 について、ある意味相手によります。  かりに、相手が 「見返りを求められる」 者なら、十分に注意することなのです。  「見返りに縛られる」 者を、支配するように、親切顔をして近づいてくる者もいる からだ。  さんざん利用されましたあげく、現金を奪われ、捨てられた人も、何人かご存知います。    逆に、もし、相手が本心から好意でしてくれたことであれば、そこは見返りを期待したものなのではないです。

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人は、心の問題に対しては、心で応えるべきです。  それで、相手に何かを返さなければなることはないと考えるってのは、商取引と同じ発想。  せっかくの相手の好意を、自らの心の貧しさによりまして、価値を下げてしまうことになるんです。    ではさらに、こういう好意を受けた場合、自分はどうするならばよいのだろうか。  そこは、自分自身が心豊かな人間になること ではないでしょうか。  見返りを求めない人々は、感謝されたいのでではなく、他人も心豊かに生きて欲しいと思っています。  ですからには、まず 「見返りに縛られる」 発想から、抜け出さなくてはいけない。

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次に目指すのは、自分もその人と同じく、見返りを期待することもなく、誰かに何かをしてあげれるようになることです。  ただ、無理をせず、出来る範囲内で、相手の課題に踏み込最初に、もし、相手が期待に沿えないとしましても、決して恨むことなく。 私は、上の世代から受けた恩は、本人に返すことなく、ぜんぜん関係のない、下の世代へ返す こととしています。  そうやることにより、世代間がつながり、社会全体としまして、連帯感が増すのではないと感じているからだ。

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