もくじ
坂本竜馬が残した仕事を岩崎弥太郎(三菱財閥)はちゃっかり頂いたのです!
坂本龍馬の龍馬の暗殺の犯人として、1)新撰組 2)京都見廻組 3)薩摩藩 4)土佐藩 5)中岡慎太郎 などの説が一般的であり、京都見廻組説が主流です。
1)の新撰組とは、京都守護職・松平容保公預かりで、京の町の治安維持に当たっていた警備隊で、倒幕の志士達を斬り殺しています。
新撰組が疑われたのは、現場に新撰組の下駄があったとか、元新撰組の伊東甲子太郎が暗殺現場に残された鞘(さや)を見て、新撰組の原田左之助のものと証言したことなどから、
真っ先に疑いが掛かったものの、近藤勇をはじめ、隊士の誰もが関与を否定しており、いろんな証言が食い違いすぎいます。
2)の京都見廻組とは、京都市中の取り締まりを、主任務とする幕府の警備隊で、新撰組と同じようなものですが、元京都見廻組の今井信郎や渡辺篤らが後年、
龍馬襲撃を証言しているものの、食い違いも多く真実と結論付けるには至らないものの、倒幕側の龍馬を暗殺する事は、何ら不思議ではないので、京都見廻組説が主流となっています。
3)薩摩藩黒幕説は、倒幕を計画し徳川と一戦構えようとしているときに、坂本龍馬が公武合体の先方となってしまい、徳川慶喜に大政奉還させてしまったので、今後の武器取引にも坂本龍馬は邪魔となる存在になってしまったというものです。
私は、この説は至極自然な考えであると思っています。 龍馬が土佐藩の山内容堂に船中八策を説き、公武合体派の山内容堂が、徳川慶喜に大政奉還の建白書を提出したのが1867年10月29日、内戦を避けるために、
慶喜が朝廷に大政奉還の上奏文を提出したのが1867年11月9日。 その直後の1867年11月15日に、坂本龍馬は暗殺され、薩長は徳川を挑発し1868年1月27日に鳥羽伏見の戦いが始まっているのです。
4)土佐藩説では、中岡慎太郎が死ぬ直前に残した証言で、刺客が土佐弁で 「こなくそ(=この野郎)」 と言ったとしていますが、重要なのは雇ったのが誰かであって、刺客が何弁を喋ろうが重要ではありません。
わざとに、土佐藩の仕業に見せかけるために、土佐弁を使った事だって考えれるのです。
5)中岡慎太郎説ですが、同じ土佐藩の親友である海援隊の坂本龍馬、陸援隊の中岡慎太郎が斬りあったとはとても思えませんし、
いつも行動を共にしていたのですから、いつでもチャンスはあったわけで、何故に大政奉還の直後に龍馬を殺さねばならなかったのかという理由がありません。
私にとって、新撰組説、京都見廻組説が、しっくりこないのは、彼らにしてみれば倒幕側の坂本龍馬は以前から狙えたわけで、わざわざ大政奉還の直後に行ったのは何故かという疑問を持ちます。
何故なら、龍馬が公武合体を唱えている時期は、むしろ徳川から見れば、倒幕派の大物で唯一コンタクトを取る事が出来るのが坂本龍馬であり、彼は打倒徳川ではなく、
朝廷の下で徳川を他の大名と同じ立場に置き、発言権をも認めるというもので、かつ民の事をかんがえると、同じ日本人同士で殺し合いをしなくて良いわけですから、
決して悪い話ではありません。 すなわち、この時期に龍馬を狙うのは得策ではありません。
また、このような高い次元から考えず、新撰組や京都見廻組が単純に、龍馬を反徳川と思っていたなら、剣の達人でもあった彼を斬り殺せた事は名誉なことであり、
堂々と 「首を討ち取ったぞ!」 とその場で宣言しても良いくらいであると思います。 今までだって、仕事として反徳川勢力の人間を斬り殺してきたわけですから、
別に龍馬を斬ったから殺人罪に問われるものではありません。
私の説は、基本的に薩摩藩黒幕説なのですが、これまたしっくりこないのは、世間一般の薩摩藩黒幕説では、何で薩摩藩だけに限らなければならないかという事です。
公武合体により、内戦を避けるべく龍馬が活動して困るのは、薩摩藩だけではありません。
誰より困るのは、既に大量の艦船、大砲、銃、弾薬を見込みで発注をかけているグラバーであり、不渡り手形に怯えるジャーディン・マセソン商会の重役たちです。
また、龍馬の海援隊(前身は亀山社中)がグラバー商会のダミー会社として、薩長と武器取引していたわけですから、龍馬が戦争反対となれば、
薩長の立場としては徳川と戦うための武器調達が出来なくなるという大問題を抱え込むことになってしまいます。
そうなれば、もう龍馬に消えてもらう以外に手はありません。 ここで甘い判断をしていると、薩長両藩の存続の危機を迎える事になってしまいます。
では、龍馬を暗殺した場合、武器取引の商社である海援隊をどうするかという問題になりますが、そこで後藤象二郎と岩崎弥太郎も一枚かんでいたと私は見ます。
龍馬の「船中八策」を山内容堂に提案し、大きな功績を挙げた後藤象二郎ですが、どうしてもグラバーや薩長両藩と関係のあった龍馬のほうが派手に目立ち、
龍馬のことを快く思っていなかった後藤象二郎にとっては、龍馬を消すという話に一枚絡んできても不思議ではありません。
実際、龍馬暗殺の後、後藤象二郎は 「海援隊」 を自分のものとし、「土佐商会」 に改名し、岩崎弥太郎が主任となり、後に岩崎弥太郎のものとなってゆきます。
さらに倒産したグラバーの高島炭鉱も二束三文で払い下げを受け、自分のものとし 「蓬莱社」 と改名し、これまた後に、岩崎に譲っています。
この2人の悪友の評判は極めて悪く、明治維新の際に、まさしく公私混同、インサイダー取引を繰り返し、私腹を肥やしてゆきました。
岩崎弥太郎は、言うまでもありませんが三菱の創始者です。 彼は高知県安芸市の地下(ちげ)浪人の長男として生まれましたが、
とにかく貧乏で、幼少の頃から奇行や盗み癖が目立ち、泥棒をしては何度も刑務所に入っています。
確か、司馬遼太郎の 「龍馬がゆく」 にも、この事は書いてあったと記憶しています。
岩崎は、25歳の時吉田東洋の門下生となり、土佐藩の命で長崎に派遣されましたが、藩費を浪費・使い込み、翌年解職されています。
もっとも、何度も刑務所にブチ込まれている彼としては、何ら経歴に傷がつくほどの事ではなかったと思われます。
岩崎弥太郎がチャンスをつかむのは、同郷の坂本龍馬が暗殺されてからで、後藤象二郎が「海援隊」 を自分のものとし、「土佐商会」 と改名し、その主任として岩崎を雇ってからです。
前述しましたが、坂本龍馬がつくった海援隊や、グラバーの高島炭鉱は後藤が先ず手に入れ、盗み癖よろしく、官営事業払い下げという形で、岩崎弥太郎が最終的にそれを手にしています。
特に龍馬から受け継いだ海運事業や武器取引は、後に西南戦争、日清戦争、日露戦争で、三菱のドル箱事業となってゆく事になり、岩崎弥太郎は坂本龍馬をしゃぶり尽くしているのです。
また、維新政府が全国統一貨幣制度に乗り出した時に、各藩が発行していた藩札を新政府が買い上げることを事前にキャッチした弥太郎は、
十万両の資金を都合して藩札を大量に買占め、それを新政府に買い取らせて莫大な利益を得ていますが、この情報を流したのも新政府の高官となっていた後藤象二郎であります。
これは明らかなインサイダー取引で、この2人は国を食い物にして私腹を肥やしていました。
すなわち、三菱は、三井や住友のような老舗の財閥とは異なり、明治維新のどさくさに紛れて、政治家や軍事産業と密接につながり、デタラメをやりながら出来た財閥と言えます。
確かに創始者は岩崎弥太郎に違いありませんが、坂本龍馬がいなかったら、また暗殺されなかったら、今日の三菱財閥はなかったでしょう。
話を龍馬暗殺に戻すと、このように、グラバー、ジャーディン・マセソン商会、薩長両藩のみならず、土佐藩の後藤象二郎や岩崎や太郎も、坂本龍馬暗殺の恩恵を蒙っており、
暗殺に関わっていても不思議ではありません。
また、龍馬暗殺をさかいに、グラバーは岩崎弥太郎と密接なビジネスパートナーとなってゆき、グラバー商会倒産後は、三菱の顧問となっています。
日本で最初のビール製造工場は、明治はじめにアメリカ人ウィリアム・コープランドとウィーガンドが横浜山手の天沼に設立した 「スプリング・ヴァレー・カンパニー」 ですが、
三菱の顧問をしていたグラバーが、工場買収を買収して資本金5万ドルで 「ジャパン・ブルワリー・カンパニー」 を設立しました。
これが後に、三菱の麒麟麦酒株式会社へと発展してゆきますが、この会社のシンボルマークが何故麒麟なのか?
私は、グラバーが親友であった坂本龍馬の事を痛ましく想い、龍の頭 と 馬の体を持つ麒麟を、龍馬に見立ててシンボルマークとし、龍馬にすまなかったという気持ちをあらわし、
龍馬との思い出を偲んでいたのではないかと思うのであります。