もくじ
坂本龍馬が暗殺されなかったら今日の三菱財閥はなかったのである
公武合体を唱える龍馬は、もはや彼らにとって邪魔な存在でしかなかったのです。
1867年11月9日に徳川慶喜は朝廷に大政奉還の上奏文を提出しますが、それを事前にキャッチしていた岩倉具視の画策により、
その前日に薩長両藩に倒幕の密勅が手渡されており、内乱を避けるための大政奉還・公武合体は邪魔され、そして、邪魔になった坂本龍馬が暗殺されたのが、1867年11月15日。
坂本龍馬 享年33歳
薩摩、長州、芸州(広島)の三藩は京都。大阪に出兵し、1868年1月3日に薩摩、土佐、芸州、尾張、越前の兵に守られる中、王政復古の大号令がだされ、
幕府の廃止と天皇を中心とする新政府の樹立が宣言されました。
折角、徳川慶喜が大政奉還により、内戦を防ごうとしたのに、挑発してくる薩長に対し、旧幕臣と会津、桑名両藩兵は激昂し、京都から大阪城へ移っていた慶喜も薩長征討を決意。
慶応四年(1868年)1月26日、旧幕府軍は京都にむけて進撃を開始し、27日の夕方、京都南郊外の鳥羽と伏見で薩長連合軍と衝突し、
この鳥羽・伏見の戦いを機に、幕府軍vs維新軍の戊辰戦争(1868-1689)が勃発する事になります。
戊辰戦争では、討幕運動を推し進めたイギリスの外交官アーネスト・サトウの存在も忘れてはなりません。
Ernest Mason Satow (1843-1929)
アーネスト・メーソン・サトウは、ミドルネームのメーソンが表しているように、正真正銘の石工の家系であり、彼はイギリスの外交官で、駐日領総事ラザフォード・オールコックや駐日公使ハリー・パークスの下で活躍し、明治維新に大きな貢献をした人物です。
それは、22歳のサトウが 「 ジャパンタイムズ 」 に書いた 「 English Policy (英国策論)」 に、
「 徳川幕府を倒し、天皇と大名連合体が日本を支配しなければならない 」 とあり、
徳川が約束した兵庫開港の期日が遅れるようなことがあれば、
「 イギリス政府は強制と流血に訴えると 」 したもので、この期日が2年後の1868年元旦であり、明治維新の年でした。
この「英国策論」の翻訳が出回り、イギリス政府による革命の宣戦布告に、徳川についていた大名たちは浮き足立ち、維新勢力は勢いづき、明治維新という革命を成し遂げる事ができたのです。
日英同盟は、サトウが日本を去った2年後である1902年(明治35年)1月30日に、日本人で初めてイギリスのフリーメーソンとなった林董(はやしただす)駐英公使と、
イギリスのペティ・フィッツモーリス外相により調印されましたが、親日家のサトウのロビー活動があったが故であったことも忘れてはなりません。
また、幕末の混乱期の1862年、徳川慶喜の政治顧問の西周(にしあまね)は、津田真道、榎本武揚らとともに、幕府の指示により、西洋の政治・法律・経済を研究するためにオランダのライデン大学に留学します。
その指導教官がライデンの「ラ・ヴェルテュ・ロッジ・ナンバー7」に属するフリーメーソンで、
1864年10月20日、彼は指導生であった西周をこのロッジに紹介し、その日に35歳の西周は、「徒弟」「職人」として、フリーメーソンになる事を承認され、
日本人では初めてのフリーメーソンとなりました。 津田真道も、1ケ月後にフリーメーソンとなっている事が記録に残されています。
西周 (1829-1897) 明治初期の啓蒙家
こうして、フリーメーソンのペリーが日本を開国させ、欧米の傀儡政権である明治新政府の樹立に向け、また新政府の運営に向けてフリーメーソン思想を日本人指導者たちに植えつけていったのであります。
話を坂本龍馬に戻すと、誰が龍馬を暗殺したのか? 未だに解明されておりませんが、私の意見は、イギリス(アーネスト・サトウ、ジャーディン・マセソン商会、グラバーなど)、
薩摩藩(島津久光、大久保利通、西郷隆盛など)、長州(伊藤博文、井上馨、など)、土佐藩(後藤象二郎、岩崎弥太郎、など)のラインで坂本龍馬の暗殺が計画され、
雇われた刺客により坂本龍馬と中岡慎太郎は斬られたというものです。
公武合体により、内戦を避けるべく龍馬が活動して困るのは、薩摩藩だけではありません。
誰より困るのは、既に大量の艦船、大砲、銃、弾薬を見込みで発注をかけているグラバーであり、不渡り手形に怯えるジャーディン・マセソン商会の重役たちです。
また、龍馬の海援隊(前身は亀山社中)がグラバー商会のダミー会社として、薩長と武器取引していたわけですから、龍馬が戦争反対となれば、薩長の立場としては徳川と戦うための武器調達が出来なくなるという大問題を抱え込むことになってしまいます。
そうなれば、もう龍馬に消えてもらう以外に手はありません。 ここで甘い判断をしていると、薩長両藩の存続の危機を迎える事になってしまいます。
では、龍馬を暗殺した場合、武器取引の商社である海援隊をどうするかという問題になりますが、そこで後藤象二郎と岩崎弥太郎も一枚かんでいたと私は見ます。
龍馬の「船中八策」を山内容堂に提案し、大きな功績を挙げた後藤象二郎ですが、どうしてもグラバーや薩長両藩と関係のあった龍馬のほうが派手に目立ち、
龍馬のことを快く思っていなかった後藤象二郎にとっては、龍馬を消すという話に一枚絡んできても不思議ではありません。
実際、龍馬暗殺の後、後藤象二郎は 「海援隊」 を自分のものとし、「土佐商会」 に改名し、岩崎弥太郎が主任となり、後に岩崎弥太郎のものとなってゆきます。
さらに倒産したグラバーの高島炭鉱も二束三文で払い下げを受け、自分のものとし 「蓬莱社」 と改名し、これまた後に、岩崎に譲っています。
この2人の悪友の評判は極めて悪く、明治維新の際に、まさしく公私混同、インサイダー取引を繰り返し、私腹を肥やしてゆきました。
岩崎弥太郎は、言うまでもありませんが三菱の創始者です。 彼は高知県安芸市の地下(ちげ)浪人の長男として生まれましたが、とにかく貧乏で、幼少の頃から奇行や盗み癖が目立ち、泥棒をしては何度も刑務所に入っています。
確か、司馬遼太郎の 「龍馬がゆく」 にも、この事は書いてあったと記憶しています。岩崎は、25歳の時吉田東洋の門下生となり、土佐藩の命で長崎に派遣されましたが、
藩費を浪費・使い込み、翌年解職されています。 もっとも、何度も刑務所にブチ込まれている彼としては、何ら経歴に傷がつくほどの事ではなかったと思われます。
岩崎弥太郎がチャンスをつかむのは、同郷の坂本龍馬が暗殺されてからで、後藤象二郎が「海援隊」 を自分のものとし、「土佐商会」 と改名し、その主任として岩崎を雇ってからです。
前述しましたが、坂本龍馬がつくった海援隊や、グラバーの高島炭鉱は後藤が先ず手に入れ、盗み癖よろしく、官営事業払い下げという形で、
岩崎弥太郎が最終的にそれを手にしています。
特に龍馬から受け継いだ海運事業や武器取引は、後に西南戦争、日清戦争、日露戦争で、三菱のドル箱事業となってゆく事になり、岩崎弥太郎は坂本龍馬をしゃぶり尽くしているのです。
また、維新政府が全国統一貨幣制度に乗り出した時に、各藩が発行していた藩札を新政府が買い上げることを事前にキャッチした弥太郎は、
十万両の資金を都合して藩札を大量に買占め、それを新政府に買い取らせて莫大な利益を得ていますが、この情報を流したのも新政府の高官となっていた後藤象二郎であります。
これは明らかなインサイダー取引で、この2人は国を食い物にして私腹を肥やしていました。すなわち、三菱は、三井や住友のような老舗の財閥とは異なり、
明治維新のどさくさに紛れて、政治家や軍事産業と密接につながり、デタラメをやりながら出来た財閥と言えます。
確かに創始者は岩崎弥太郎に違いありませんが、坂本龍馬がいなかったら、また暗殺されなかったら、今日の三菱財閥はなかったでしょう。
話を龍馬暗殺に戻すと、このように、グラバー、ジャーディン・マセソン商会、薩長両藩のみならず、土佐藩の後藤象二郎や岩崎や太郎も、坂本龍馬暗殺の恩恵を蒙っており、暗殺に関わっていても不思議ではありません。