ユダヤ文化と日本:お神輿は誰が、いつ、何の目的で始めたのでしょう

お神輿とイスラエルの契約の箱

神道の神事が、旧約聖書の神事やできごとと類似しているという指摘は、神道関係者のあいだで早くからささやかれてきました。

一方、クリスチャンは毎日聖書を読み、賛美を歌い、お祈りをします。その中で旧約聖書を読んでいると、

日本の風俗習慣と似ているところが多くあるので、不思議に思ってきました。

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『お神輿』は夏や秋の風物詩。お祭りのメイン・イベント。その日になると、若い衆が笛や太鼓に合わせ、神輿をかつぎ、ワッショイ、ワッショイと町中を練り歩きます。

山車でひっぱるもの、海や川に入るものもあります。日本全国にいったいどれだけのお神輿があるのでしょうか。

大変な数でしょう。お神輿は場所によっていろいろ違いますが、原型は等身大の箱に2本のかつぎ棒が通り、屋根には鳳凰が舞っている形をしています。

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ではこれはいったい、誰が、いつ、何の目的で始めたのでしょう。箱は何を象徴しているのか、なぜ鳳凰が舞っているのか誰も説明できません。

すべてご先祖様から伝えられてきた神事であることしかわかりません。

日本人の先祖の多くが大陸から渡来してきたとしたら、

アジアの近隣の国に同じような風習があってもいいはずなのに、

どの国にもありません。ところが驚くなかれ。これが唯一イスラエルにあったのです。

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旧約聖書には『契約の箱』という神器が出てきます

それはアカシヤ材に純金を覆って作られ、大きさは等身大で、四隅には金の輪が取り付けられ、アカシヤ材の棒が2本、金で覆われ、輪の中を通してありました。

箱の上には『贖いのふた』があり、1対の『ケルビム』(天使)が翼を広げてそのふたを覆っていました。

これはイスラエルがモーセに導かれて荒野を放浪中、シナイ山のふもとで神の指示のもとに製作されたもので、彼らが行進するときには、必ずこの契約の箱を先頭に行進しました。(出エジプト25)

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いわば神の臨在を象徴する重要な神器でした

その後ヨシュアによって約束の国にはいるとき、契約の箱をかついだ祭司がヨルダン川にはいると、水はせき止められ、

全員が渡り終わるまで箱は川の真中に止まっていました。(ヨシュア記3)

その後ダビデ王が、この箱をエルサレムに運び入れようとして牛車に載せた所、

神の聖なる方法でなかったため神罰が起こり、箱に触ったウザが即死しました。

ダビデは恐れて神にお伺いをたて、祭司の肩にかつぐことを教えられました。

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やがて契約の箱は祭司にかつがれ、人々の熱狂的な叫び声と踊りの中でエルサレムに運びこまれ、ダビデ王も感激のあまり、人民の前で踊りました。

そして人々に輪型のパンやなつめやしの菓子やほしぶどうの菓子が振る舞われました。(Ⅱサムエル6)

今日、契約の箱は行方不明になっています。預言者エレミヤがエルサレム陥落のとき荒野の中に隠したといわれていますが、さだかではありません。

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箱の形、ケルビムと鳳凰、2本の棒、担ぐ作業、川や海に入る、山車にひかれる、喜びの祭りなどなど、まさに日本のお神輿のルーツを見るようではありませんか!

 契約の箱には『三種神器』が入っていました

それはモーセがシナイ山で唯一の神から授けられた十戒の2枚の『石の板』、祭司を決めるとき立てた杖に一晩で花や実が付いたといわれる『アロンの杖』、

40年間荒野で食べた『マナの壷』です。

世界広しといえども、イスラエルの他に三種神器を持っているのは日本だけです。

皇位の御璽(ぎょじ)として捧持され、

宮中三殿といわれる賢所、神殿、皇霊殿には、伊勢皇大神宮の御鏡の写しがご分霊として鎮まっており、剣と璽は宮殿に奉安されています。

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一般的にいわれる三種神器は、八咫の鏡(やたのかがみ)、草薙剣(くさなぎのつるぎ)、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)です。

イスラエルと日本の三種神器を比較しますと、十戒の2枚の石は心を、鏡は姿を見るためで、ともにそれが正しいかどうかを知る基準です。

アロンの杖と剣は形が似ています

マナの壷と勾玉は違いますが、祭司が胸につけるウリムとトミンムという石の形が、

不思議にも勾玉とよく似ています。(出エジプト28.30)

このイスラエルの契約の箱や、三種神器という民族継承の最も重要な神器が、形を変えているとはいえ、

日本においても宗教的、国家的最重要な器具として存在している事実に注目しましょう。

紀元前200年から数百年にわたって、大陸から渡来した強力な集団によって始まった弥生時代に、初めて国家意識が生まれました。

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その意識をもたらした集団が、古代イスラエル人だった可能性が非常に大きいのです。もしかすると私たち日本人には、イスラエル人の血が、

全部とはいいませんが流れているのかも知れません。

それですから旧約聖書の出来事や人物を学ぶとき、不思議な親近感を受けるものと思われます。

ということは、聖書の神様は日本人にとって決して遠い神様ではなく、非常に親しみやすいお方であるということです。

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キリスト教会では契約の箱が等身大の生きたキリストを象徴していると解釈しています。

アカシヤの木はその人性、金は神性、輪は神の愛、肩でかつぐことはその清さ、箱は神の守りと保護、

ケルビムは神の尊厳さ、贖いのふたは十字架で流された血による贖いを示しています。

三種神器では、十戒はキリストが生きた律法であること、杖は導くお方、マナの壷ではいのちのパンを表しています。

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キリストはすでに成就したすばらしい事がらの大祭司として来られ、手で造った物でない、言い替えればこの造られた物とは違った、

さらに偉大な、さらに完全な幕屋を通り、また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によってただ一度、まことの聖所にはいり、

永遠の贖いを成し遂げられたのです。」(ヘブル9.11、12)

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