高知方面を旅行したときに、「龍馬歴史館」を訪ねて、坂本龍馬の一生の出来事を蝋人形で再現させた展示物を見てきた。
その中で、「龍馬脱藩・姉栄の自殺」という展示があった。
姉の栄が刃物で自殺をしようとする人形で、解説にはこう書いてあった。「…兄の権平は龍馬の不穏な空気を怪しみ、
万一過激な行動を取ったら家を危うくする恐れがあると心配して
龍馬から刀を取り上げ『龍馬が何を言ってきても相手にならないように』と
親戚にも警戒を呼びかけた。
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武士が丸腰で道中できない。このとき、焦る龍馬に次姉栄は家伝の刀肥前忠広を与えた。
龍馬は勇躍して沢村とともに脱藩したが、栄は責任を取ってその夜のうちに自殺した。大きく羽ばたいて土佐を出た龍馬の陰に悲劇の女性がいたことを忘れることはできない、
3月24日の出来事であった。
龍馬に刀を与えたのは栄ではなく乙女だったという説もあり、
この話は今も謎に包まれている。」(引用終わり)
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しかし、大河ドラマの「龍馬伝」では龍馬が脱藩した後にこのような場面はなかったはずだ。
そもそも、NHKの「龍馬伝」のオフィシャルサイトでは、次女の栄がキャストから欠落している。
なぜこのような重要でドラマチックな事件を、
なぜストーリーから削ってしまったのかとその時は思った。
栄の自害の話は、司馬遼太郎の「竜馬が行く」の第二巻にも書かれている。
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ここでは、栄は龍馬に、嫁ぎ先であった柴田家伝来の陸奥守吉行の刀を渡し、
その後それが問題になり栄は責任を取って自害したこととなっているが、
「龍馬歴史館」の解説とは刀や自殺の時期は異なるものの
栄が責任を取って自害したことは同じである。
高知旅行の二日目は桂浜の近くの「坂本龍馬記念館」を訪ねたのだが、
その横に龍馬の姉の坂本栄の石碑があり、
右に「龍馬脱藩に刀を与えて自決した次姉」と書いてあった。
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石碑の建立は昭和62年の春で、字は高知県出身で
元日本芸術院長の有光次郎氏の筆によるものである。
NHKが歴史を捻じ曲げることは昔から良くあることなので、
旅行の時はそれ以上深くは考えなかったのだが、
最近このブログで龍馬やお龍の事を調べているうちに、
姉の栄のことが分かってきた。
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結論から言うと、NHKの「龍馬伝」の脚本には何の問題もなく、
間違っているのは司馬遼太郎の「竜馬がゆく」や「龍馬歴史館」などの方である。
次女の栄が龍馬に刀を渡した後に自害したというのは後世の作り話であった。
ではどうして、これが作り話と言えるのか。
この件について書いているサイトはいろいろある。
龍馬の父親は坂本八平で、母親との間に子供が五人いたことは
坂本家の家系図でわかっている。
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坂本八平の子供(龍馬の兄弟・姉妹)を年齢順に書くと、
長男:権平、長女:千鶴(高松順蔵妻)、次女:栄(柴田作衛門妻)、
三女:乙女(岡上樹庵妻 後離別)、次男・龍馬となる。
昭和63年3月に高知市山手町丹中の竹藪の中で栄の嫁ぎ先である
柴田家の墓石と隣り合わせに発見された墓石が、
龍馬の姉の栄のものではないかというニュースが「高知新聞」などで報道された。
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その墓石には「柴田作衛門 妻」「坂本八平 女」と2行で刻まれ、
戒名が「貞操院栄妙」となっていたことから、この墓は栄のものであることが
今では確実視されている。
この墓には被葬者の没年は弘化2年(1845年)9月13日となっていたのだが、
この年は龍馬の脱藩よりも17年も以前の話で、
栄は嫁いですぐに若くして亡くなったということが確実となった。
したがって、栄は柴田家を離縁された事も疑わしく、龍馬に刀を渡したこともあり得ない話だということになる。
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では、誰が栄の自害説などを唱え出したのだろう。
龍馬のことを最初に書いた小説である明治16年の坂崎紫瀾作「汗血千里駒」では、
乙女が龍馬に刀を渡したことになっているそうだ。
ネットでいろいろ調べると、最初に栄が刀を渡したと言いだしたのは
昭和37年(1962)の司馬遼太郎の「竜馬がゆく」が最初で、
それ以降、栄が刀を渡して後で責任を取って自害した説が広まったということらしい。
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では、司馬遼太郎は何を根拠に栄が龍馬に刀を与えたという説を唱えだしたのか。
上記のサイトによると、坂本家の本家に嫁いだ内田さわという女性の孫にあたる、
宍戸茂という人物が司馬遼太郎の「竜馬がゆく」の連載を知り、
祖母(内田さわ)から聞いた話を匿名で、
「このエピソードは、(坂本家が龍馬の)脱藩に加担したことになるので、
門外不出として(隠されてきた)坂本家の秘密」として司馬遼太郎に伝えた話らしいのだ。
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その後宍戸茂は、昭和41年に発表した「『長路』喜寿編」という作品の中で、
龍馬に刀を与えたのは乙女ではなく栄であることを書いているそうだ。
「龍馬歴史館」が建てられたのは昭和63年(1988)11月で、
「坂本龍馬記念館」の隣の坂本栄の碑が建立されたのは
昭和62年(1987)春だから、いずれも司馬遼太郎や宍戸茂の説に
引っ張られたものであることは確実だ。
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栄のものらしき墓が発見され、栄の墓であることが確実視されたのは
そのあとの話なのでこれはやむを得ないだろう。
歴史小説の作家はフィクションなしには小説は書けないだろう。
したがって小説を読む読者は、歴史的事実に近い内容が書かれているが
フィクションも多いことを注意する必要があることはわかる。
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しかし、博物館や記念館の展示物は見学者はすべて歴史的事実であると
考えるのが普通ではないか。後日展示内容に誤りがあることが判明した場合は、
あるいは別に有力な説が生まれた場合は、展示内容を訂正するか、
解説文に但し書きを入れるような配慮があるべきではないだろうか。
そうでなければ、誤った歴史理解が広がっていくだけである。
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