「三国志」の 劉備がいた「漢」とは どんな国 だったのかを 説明します

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 三国志の舞台は「三国時代」ではなく、その主要な部分は漢(後漢)の時代をいうのです

漢は、いったんは滅びているため「前漢」と「後漢」に区分けされており、三国志の時代は「後漢」末期にあたる。

今回はその漢がどんな国家で、どんな時代であったのか。簡潔ではあるが説明したく思う。

まず「漢字」や「漢民族」に代表されるように、この時代に生まれた文化は強い影響力を持った。中国大陸に住む人は、みずからを今でも「漢人」「漢族」と呼ぶことがあり、その割合は中国の全人口の9割以上を占めるという。

そして、劉備や曹操といった三国志の英雄たちも漢に生きた人たちだ。彼らは漢のために生き、漢の皇帝を護り、漢という国の再興をスローガンに掲げ、戦っていた。

最初から「魏」や「蜀」という国を作ろうとか、三国分立のために戦っていたわけではない。漢の存在なくして、彼らの存在意義や行動指針などはなかったといえる。

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なぜなのか。それは、ひとつには「漢」が非常に長く続いたからだ。紀元前206年から紀元220年まで、前漢と後漢を合わせれば、実に400年も続いた。

中国の王朝は短命なものも多い。遣隋使で有名な隋(ずい)は37年で滅びたし、司馬炎の西晋は51年。フビライが建てた元も100年に満たない。だが、漢の前に存在した秦は、中でも断トツの短命政権であった。

秦は漫画『キングダム』で知られる秦王・嬴政(えいせい)が、紀元前221年に六国を倒して中国を統一して建てた国だ。

嬴政は史上初、始まりの皇帝を意味する皇帝(始皇帝)となった。その権力は絶大であったが、その反動もあってか、始皇帝が50歳で急死した途端に瓦解。わずか2代15年で滅びたのである。

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始皇帝は画期的な政策を次々と打ち出したが、あまりの短命政権だったため、後に残ったものは少ない。

始皇帝死後、急速に衰えた秦を滅ぼしたのが、項羽(こうう)と劉邦(りゅうほう)の両名である。力を合わせて秦を倒した両雄も、ほどなくその後の覇権をかけて相争うことになり、その結果、劉邦が勝利した。

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漢の国号の由来となった漢水とは何か

紀元前206年、劉邦は新たな皇帝となり、拠点としていた漢水という河の中流域「漢中」(現在の陝西省)の名前をとった漢帝国を建てる。

長江最大の支流として知られる漢水

そして2代15年で終わった秦とは違い、漢は長く続いていった。

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ことに第7代皇帝・劉徹(武帝)は積極的な外征で、それまで悩まされていた異民族・匈奴(きょうど)などを圧倒。将軍の衛青(えいせい)や霍去病(かくきょへい)らを用いて打ち破り、西は敦煌、東は朝鮮半島北部、南はベトナム、北は外蒙古までにいたる大帝国を築き上げた。

こうして前漢は劉邦から7代にして最盛期を誇る強大な国へと成長した。当然、漢の皇帝の権力は絶大であり、それに従う官僚や将軍たちも有能で、よく働いた。

だが、何事にも終わりは来る。盤石を誇った漢帝国にも少しずつ綻びが生じ始め、紀元8年に一度は滅びてしまうのである。

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