もくじ
坂本龍馬の暗殺は誰がやったのか~その3
以前、龍馬を暗殺したのは誰かについて2度にわたりこのブログで書いた。
そこでは、この事件の黒幕がいたかどうかについては諸説があるが、暗殺の実行犯については京都見廻組で、龍馬を斬ったの今井信朗だというのが定説になっていることを書いた。
しかし今井の言うことを全く信用しなかった土佐藩の谷干城(たにたてき:第二代学習院院長、初代農商務大臣)もいる。
どちらが正しいのだろうか。
明治33年(1900)に今井信郎は甲斐新聞の記者・結城礼一郎の取材に応じ、
自分が龍馬らを斬ったことを詳細に語った記事が
「近畿評論第17号」という雑誌に掲載された。
今井信郎は仲間の三人とともに、松代藩士を騙って近江屋の二階に上がってからの部分をしばらく引用させていただく。「6畳の方には書生が3人いて、8畳の方には坂本と中岡が机を中へ挟んで座っておりました。
それから踏み込んで右からまた一つ腹を斬りました。
この二太刀で、流石の坂本もウンと言って倒れてしまいましたので、
これは本当に電光石火で、一瞬にやったことなのです。」(引用終わり)
かなり具体的に書いており、本人でなければわからないような生々しさがある。
今井の証言を全く信用せず単なる売名行為だとまで語っている。
谷干城は明治39年(1906)11月に「近畿評論を駁す」と題する演説を行ったそうだが、
谷干城の遺稿の中にその演説内容が書き込まれている。
長文なので、谷干城が暗殺現場で見た龍馬と中岡について述べているところを引用させていただく。
「坂本は非常に大きな傷を負っており、額のところを5寸ほどやられているから、この一刀で倒されたのであろうが、後ろからもやられて背中に袈裟掛けに斬られていた。
坂本の傷はそういう次第で、中岡の傷はどういうものかというと、後ろから頭を斬られており、それから左右の手を斬られていた。そして、足を両方とも斬ら れ、腹ばいに倒れたところをまた2太刀斬られており、その後ろから腰を斬った太刀は、ほとんど骨に達する程深く斬られていた。
けれども、傷は脳に遠いものだったので、なかなか元気な石川(中岡の変名)でありますから、意識は確かであった。」
「一体どういう状況であったかと(中岡に)聞いてみると、…(中岡が)坂本を訪ねて談話していると、『十津川の者でござる。どうぞ御目にかかりたい』と何者かが訪ねてきた。
そこで取次の従僕(藤吉)が、手札を持って上がってきた。この時、中岡は手前にいて、坂本はちょうど床を後にして前に座っていた。2人は行燈に頭を出して、その受け取った手札を見ようとしたところへ、2階へ上がる従僕について来た賊が、突然「コナクソ」と斬り込んできた。その時手前にいたのが、中岡である。
実際の状況とこの人の話とでは、両人がいた位置も違い、机などを並べていたというけれども、そんな訳はなかった。2人が手札を見ようとするところへ斬り込み、中岡を先にやったのである。」
「この人(今井信郎)の話によると、まず坂本の横ほおを一つ叩いたとある。これは何か話にでも聞いたものかもしれないが、坂本は額を5本くらい斬られていた。それから、これは少々似ているが、横腹を斬り、また踏み込んで両腹を斬った。深い傷は、横に眉の上を斬られたもの、それから後ろから袈裟に斬られたものがあり、この 2つがまず致命傷だった。」
「傷の場所からいっても、この人の話と事実は、全く違うのである。それから、さらに疑うべきことは、お前ハ松代の人であるとか何とか言ったとあるが、そんなことで応接するどころの騒ぎではない。従僕の後について来て、突然コナクソと言って斬り込み、実に素早くやったのである。」
「今井が両人を斬ったというのは、大変な間違いである。また、あの時代は斬自慢をする様な世の中であったから、誰が誰を斬ったというのは実に当てにならないと思う。」(引用終わり)
では、谷干城は暗殺の仕掛け人は誰と考えているかというと、
「この事件は、私ら土佐の者らの推測では、元紀州の光明丸といろは丸が衝突した時に、
坂本らが非常に激烈な談判をして、賠償金を取ったからそれを恨み、
紀州人が新選組を使って実行したのであろう。」と、書いているのだ。
今井は実行犯として、谷は最初に現場に行きまだ生きていた
中岡から一部始終を聞いた人物として語った内容が書かれているはずなのだが、
なぜこんなに話が違うのか。
最初に龍馬を斬ったのか、中岡を斬ったのか。
体のどこを斬ったのかということからして一致していない。
「近畿評論」の記事のとおりに中岡慎太郎が脳天を三度も斬られたのなら、
中岡が谷干城に事件の一部始終が語れることはなかっただろう。
いろいろ調べると、
「近畿評論」の掲載記事を寄稿した結城礼一郎が、大正13年(1924)になって、
この記事の一部は捏造したものであることを認めた
『お前たちのおぢい様』という手記を書いている。
そこには
「…今井さんから伺った話をそのまま蔵って置くのは勿体ないと思ったから、
少し経って甲斐新聞へ書いた。
素より新聞の続き物として書いたのだから事実も多少修飾し、
龍馬を斬った瞬間の光景なぞ大いに芝居がかりで大向ふをやんやと言はせるつもりで書いた。
処が之れが悪かった。後になって大変な事になって仕舞った。
…本当に残念な事をした、と同時に又お父さんは、
お父さんの軽々しき筆の綾から今井さんに飛んだ迷惑をかけた事を衷心から御詫びする。」
と、正直に書かれているが、自分が記事を書いてから24年間も
黙っていたのは卑怯なことだと私は思う。
とにかくこれで、龍馬暗殺の一部始終については
「近畿評論」よりも谷干城の言っていることの方が
信憑性がありそうだということははっきりしたが、
次の疑問は『お前たちのおぢい様』で結城が書いているように、
なぜ谷干城が「近畿評論」を読んでムキになって、
今井信郎を「売名の徒」とまで罵ったのだろうか。
谷干城は事件当初から坂本龍馬・中岡慎太郎暗殺に関与したのは新撰組が実行犯、
黒幕は紀州藩と考えていたようだ。
また翌慶応4年(1868)の戊辰戦争で捕えた元新撰組長の近藤勇の処遇をめぐり
薩摩藩と対立し、谷の強い意向でその年に近藤勇は斬首され、
その後に京都三条河原でさらし首にされたとされている。
近藤勇の斬首を強く主張したのは谷干城ではなく徳川家側という説もあるようだが、
いずれにしろ、坂本龍馬暗殺を新撰組実行犯と考えていた谷にとっては、
この事件に関しては近藤勇の斬首により心の整理がついて終わったものになっていたのに、
それから32年もたって京都見廻組のなかから実行犯と名乗る人物が出てきたのを
頭から認めたくなかったから、
「近畿評論」の記事を読んでムキになったということか。
しかし、谷干城がなぜ新撰組実行犯と考えたかという部分については
あまり論理的ではなく、ほとんど初めから犯人を決めつけているようにも読める。
事件直後なら新撰組を疑うのもわかるが、
新撰組には龍馬暗殺の時間帯は伊東甲子太郎を襲う密議の最中で、
主要なメンバーにほぼ完璧なアリバイがあることが後日判明しているのだ。
薩摩と土佐は最後まで新撰組説を唱えたといわれるのだが、
ひょっとすると、犯人を新撰組だということにしたかったのかも知れない。
薩摩や土佐のメンバーの誰かが疑われることを入口から
遮断しようとしたことは考えられないか。
谷干城は龍馬が暗殺された慶応3年(1867)の5月21日に、
板垣退助とともに西郷隆盛・大久保利通・小松帯刀と会い
武力討幕を密約しているのだが、坂本龍馬の考え方は武力討幕ではなく、
徳川慶喜を新政府の中に入れるという穏健なものであり、
薩摩藩や谷の考え方とは異なる。武力討幕派にとっては、
徳川慶喜が絶対拒否するとタカを括っていた大政奉還を承諾したので、
その流れでは坂本龍馬のような穏健派に新政府の
リーダーシップを握られてしまうことを懼れて、
龍馬を排除しようと動いたのではないだろうか。
もし坂本龍馬の暗殺に薩摩藩が黒幕で関与していたという説が正しければ、
彼らにとってはいろは丸事件にからめて紀州と新撰組を結びつけ、
新撰組を龍馬暗殺の犯人に仕立て上げて処刑まで行えば
将来にわたって陰謀が暴かれることはない考えたのではないか。
しかしながら薩摩関与説は、龍馬暗殺直後から噂され、
その年の「肥後藩国事史料」にも12月11日「坂本を害候も薩人なるべく候事。」
という記述があるそうだが、事件後1ヶ月も経っていないのに
公文書で薩摩関与説の記録が残っているのはもっと注目して良いと思う。
ところで、谷干城が慶応3年(1867)5月の武力討幕の密約で会った大久保利通は、
坂本龍馬とはあまり接点がなかったのか、
性格的に合わなかったのか良くわからないが、
大久保利通の日記には龍馬についての記録が全くないらしい。
その大久保が、龍馬・中岡が暗殺された翌日から
4日連続で岩倉具視に手紙を書き、龍馬や中岡が死んだことや、
下手人が新撰組らしいということを伝えているそうだが、
これはちょっと不自然だ。
大久保利通は自らの目的のために、江藤新平、西郷隆盛などを葬り去った男だ。
黒幕は、武力討幕派の中でも薩摩藩が一番臭うのだが、西郷は龍馬を評価し、龍馬との接点も多い人物で黒幕の中心にいたとは考えにくい。
龍馬と接点が少なくお互い評価もしていなかった
大久保利通こそが龍馬暗殺の黒幕の中心ではないかと考える人もいる。
動かぬ証拠があるわけではないが、この説は私にはかなりの説得力を感じている。
大久保が中心でないとしても龍馬暗殺の黒幕は少なくとも武力討幕派の中にいて、
彼らのメンバーの多くが後の明治政府の中枢部にいた。
だから、龍馬暗殺事件については徹底した原因追究がなされることがなかったし、
できなかったのだと考えている。