前回は、坂本龍馬暗殺の実行犯が京都見廻組の可能性が高いことと、
黒幕がいるとする諸説の中で薩摩藩黒幕説について書いた。
今回は別の黒幕説を書こう。
龍馬の出身である土佐藩にも、黒幕とされている人物がいる。
良く名前が出てくるのは後藤象二郎だ。
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大政奉還のアイデアは龍馬のものであることは今では多くの人が知っているが、
当時土佐藩参政であった後藤象二郎は、龍馬が発案した策をそのまま受け入れて、
藩主山内容堂の承認を得た後、慶応3年10月3日に、徳川慶喜公に進言した。
1カ月後に土佐に戻り、山内容堂から破格の賞与を授かり家老格に抜擢されるのだが、
当時は大政奉還の発案は後藤によるものと考えられており、
龍馬によるものであることを知る人は少数であったらしいのだ。
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後藤象二郎説は、龍馬のアイデアのパクリが山内容堂公らに発覚するのを恐れて
龍馬を暗殺したという話なのだが、もしそのことが理由ならば、
龍馬の発案であることを知る者全員を消さなければ筋が通らない。
一方、政治的な動機や個人的な動機ではなく、
経済的動機で龍馬が殺されたと考える説もある。
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龍馬が暗殺されることによって巨額の富を手にした人物が臭いという考え方である。
この説を述べる前に、「いろは丸」事件の説明が必要だ。
慶応3年4月23日、海援隊が海運業の目的で大洲藩から借り受け、
武器や商品などを満載していたとされる「いろは丸」と、
紀州藩の軍艦「明光丸」が広島県の鞆の浦近辺で衝突し、
龍馬が乗っていた「いろは丸」右舷が大破して沈没した事件があった。
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龍馬は万国公法を持ち出して紀州藩の過失を追及し、
船の代金3万6千両と武器その他の積み荷代金4万8千両あわせて、
8万4千両を弁済せよと主張し、政治力を駆使し、世論まで味方につけて勝訴するのだが、
最近4回にわたって実施された水中考古学調査では
「いろは丸」の積み荷には、龍馬が主張したミニエー銃400丁はなかったらしく、
龍馬が偽りの申告で賠償金額をかなり上積みした可能性が高いと考えられている。
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龍馬はミニエー銃等の銃火器の損失は
船の代金と同じの3万6千両もあったと主張していたのだ。
紀州藩の岡本覚十郎は「後藤象二郎応接筆記」でこのように書いている。
「…予も、該船に乗り込みしに慥(たしか)に南京砂糖を積み入れありたり。
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しかるに、彼はこれを打ち消し、絶えて武器、銃砲なりと主張せるなり。」
沈没する前に岡本が目撃したのは「南京砂糖」だったのだが、龍馬が、
あくまでも武器と銃砲だったと主張したというのだ。
しかし、船が沈没して証拠がなくなってしまい、紀州側に反証の余地がなくなってしまった。
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また途中から土佐藩の後藤象二郎も出席し、事件は海援隊と紀州藩の問題から、
土佐藩と紀州藩の問題に発展する。
紀州藩は交渉打開のため薩摩藩の五代才助に調停を頼んだが、
そもそも五代は龍馬とも交流のある人物であり、
すべてが龍馬の思うままに進んで6月に8万4千両の賠償金で両藩は一旦合意している。
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ところが、紀州藩より賠償減額のための交渉の申し入れがあり、
龍馬は海援隊の中島作太郎を派遣し紀州藩士岩崎轍輔との交渉にあたらせている。
交渉は10月26日から始まり、10月28日に7万両に減額されて決着している。
年表では、土佐藩の受取り分の4万両は11月4日から22日までに
「土佐商会」が受け取ったとはっきり書かれている。
ちなみに龍馬暗殺の日は11月15日とかなり近い。
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ネットでは賠償金は龍馬の手にあったと書いている人もいるが、
長崎で交渉した中島作太郎が長崎を11月10日に出航し神戸に到着したのは22日で、
龍馬に金が渡っていたことは考えにくい話だ。
「土佐商会」とは、土佐藩が慶応2年(1866)に土佐藩の物産を売りさばくと同時に
必要物資を買い入れる機関として大阪と長崎に作った藩の商社であり、
海援隊士の給与や活動資金を融通する窓口でもあった。
慶応3年(1867)6月7日、土佐商会の主任として
後藤象二郎から長崎の土佐商会の経営を任されたのが、あの岩崎弥太郎である。
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ところで、いろは丸は海援隊が大洲藩から借りた船であった。
少なくとも船の代金は大洲藩に支払わなければならないところだ。
「龍馬「伝説」の誕生」(新人物文庫)という本には、
「土佐藩から大洲藩への賠償金は、船価(35630両)の一割引きの
金額が年賦で支払われることになっていたが、
第一回の支払いが実行された記録が、土佐藩にも大洲藩にもない」と書かれている。
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ネットで大洲藩が賠償金を受け取ったかを調べたが、
受取ったことを大洲藩の正式な書類では確認できないらしく、
受取っていない可能性の方が高そうだ。
ではこの7万両はどこにいったのか。
まずは土佐商会に預けられたものと考えられるが、
この金の行方を疑い、後藤や岩崎が私的流用したと考える人がネットでは随分多い。
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翌明治元年(1868)に海援隊は解散させられ、また長崎の土佐商会も閉鎖され、
海援隊の事業と資産は後藤と岩崎に引き継がれ、
明治新政府が藩の事業を禁止する前の明治2年10月に、
土佐商会は九十九商会と改称して個人事業となり、
明治4年の廃藩置県の時に、岩崎弥太郎は九十九商会の経営を引き受け、
土佐藩の負債を肩代わりする形で土佐藩所有の船3隻を買い受けたことから、
三菱財閥の歴史が始まるのである。
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経済犯罪は「誰が得をしたか」という観点から犯人が絞り込まれるのだが、
いろは丸事件で一番得をしたのは岩崎や後藤で、
二人が龍馬暗殺に関わっていたという説はかなり説得力がある話だ。
岩崎は龍馬が暗殺される少し前の10月28日から大阪に滞在し、
龍馬が暗殺された後の11月22日に長崎に向かっている。
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岩崎が大阪に来た目的は後藤に会うためだが、
長崎での紀州藩といろは丸の賠償金減額交渉に立ち会わずに、
後藤と会って何をしていたのか。
岩崎は「岩崎弥太郎日記」を残しているそうだが、
龍馬暗殺前後の10/29から11/17までが空白になっていると言う人もいれば、
三菱グループが日記のこの部分を公開していないと書いている人もいる。
いずれにしてもこの時、彼が大阪や京都で何をしていたかはよく分からない。
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そもそも岩崎弥太郎は土佐藩の公金100両を使い込んだ前科がある男だ。
渋沢栄一とは違い、もともと志のない男である。
後藤も岩崎もいろは丸の交渉には協力したのだから、
自分にも取り分があり、龍馬の自由には使わさせないくらいの気持ちはなかったか。
あるいは、龍馬がいなければ、この金が自由に使えるという気持ちはなかったか。
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先日飲んだ友人は、後藤象二郎や岩崎弥太郎説の可能性が高いと考えていた。
私も、その説の説得力は認めるが、証拠がないのでどの説が正しいかは
正直なところ良くわからない。
いろは丸事件で紀州藩側に遺恨を残し、龍馬暗殺は紀州藩が絡んでいるとする説も
可能性があるようにも思う。
しかし、この事件について明治政府は本気で犯人が誰かを調べつくしたのだろうか。
私にはとてもそうは思えない。
追及できなかった理由があるのではないか。
この事件の真相を知るものが明治政府の要人に近いところに何人もいたので、
深く追及できなかったのではないかと考えるのは私だけだろうか。
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