坂本龍馬の暗殺は今井信郎が定説になっているが果たして本当なのか?1

坂本龍馬の暗殺は誰がやったのか ~ その1

友人と飲んでいたら、たまたま坂本龍馬の暗殺に誰が関わったかが話題になった。

友人は私の知らない話をいろいろ披露してくれたので、龍馬の暗殺事件について調べてみた。

坂本龍馬と中岡慎太郎が京都近江屋の二階で暗殺されたのは慶応三年(1867)11月15日だが、誰が殺したかについては当時から諸説がある。

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当初は新撰組が疑われていたが、後に京都見廻組の佐々木只三郎外数名であるとし、龍馬を斬ったのはその中の今井信郎であるというのが今では定説になっている。

京都見廻組とは幕末期に幕臣により結成された京都治安維持のための組織で、新撰組とともに反幕府勢力を専門に取り締まっていた。

戊辰戦争を生き抜き箱館戦争で取り調べを受けた今井信郎の明治3年の証言では、自分は見張り役だったと主張し、禁固刑を経て釈放されている。

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ところが今井は、明治33年に甲斐新聞の記者・結城礼一郎の取材に応じて、自分が龍馬を斬ったことを詳細に話していることや、

大正7年に死去する前に書き残した「家伝」には龍馬の額を真横に払うまでの具体的な経緯が書かれている。
また今井はこの事件の件で京都守護職から褒状を貰ったという妻の証言もあるようだ。
では誰が京都見廻組組頭の佐々木只三郎に龍馬の暗殺を命令したのだろうか。
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このことは今井には知らされていなかったようで、今井証言では「お指図(幕府の重職者からの命令)」があったと語っており、

命令したのは京都守護職の会津藩主松平容保か実質的な政策決定者の手代木直右衛門(てしろぎすぐえもん)の可能性が高いと言われている。

ちなみに手代木直右衛門は京都見廻組組頭の佐々木只三郎の実兄であり、また手代木が死の数日前に語った証言が書かれた「手代木直右衛門傳」には「弟が坂本を殺した。

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当時坂本は薩長の連合を諮り、土佐の議論を覆して倒幕に一致させたので幕府の嫌忌を買っていた。

某諸侯の命を受けて坂本の隠れ家を襲って惨殺した」と書かれているそうだ。

また大正4年に、同じ京都見廻組であった渡辺一郎が死ぬ直前に「懺悔したい。」と言い出し「坂本氏を暗殺したのは自分である。

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生涯隠し続けようと思っていたが、これを打ち明けて心置きなくこの世を去りたい。」と語ったそうだ。

これも、京都見廻組説を補強するものであるが、龍馬を斬ったのは2人ということなのか。

しかし、今井の証言には信憑性がないという人もいる。

土佐出身の谷干城は、龍馬暗殺を聞きつけて真っ先に現場に駆け付けた人物だが、
今井の証言を全く信用せず単なる売名行為だとまで語っているそうだ。
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谷干城は、土佐藩主山内容堂公や龍馬と異なり武力討幕強行派で、京都で薩摩の西郷隆盛や小松帯刀と武力討幕の密約を交わしていた人物である。

谷干城の言葉もまた、そのまま信用することはリスクがある。

龍馬暗殺に関する史料や意見を素直に読めば、今井だけではなく京都見廻組の関係者複数の証言があることから、

少なくとも実行犯は京都見廻組であることはかなり確度が高いと考えてよいと思う。
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そこで次の問題は、龍馬の暗殺が京都見廻組の単独犯行であったかどうかだ。

もともと京都見廻組は寺田屋事件で龍馬が幕吏数人をピストルで殺傷したとして行方を追っていた。

記録では京都見廻組は増次郎という人物に龍馬の居場所を探らせていたが、その報告があったという記録がないそうだ。
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ならば、龍馬の直接近江屋の二階を目指して京都見廻組が入り込むのはどこか不自然ではないか。
誰かが龍馬を裏切って、「才谷」という龍馬の変名と居場所を教えた黒幕がいるのではないかということになる。
龍馬が近江屋に居所を移したのは、事件のわずか3日前のことだ。
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そこで出てくるのが薩摩藩黒幕説だ。

かって坂本龍馬が同盟を仲介した薩摩・長州の二藩には、大政奉還のその日に倒幕の密勅が出されている。

大政奉還後徳川慶喜を新政府に迎えて穏便に軟着陸させようとした龍馬と、大政奉還の後は幕府は求心力を失い
武力討幕がやりやすくなったと考えた薩摩藩とはあまりにも方針が違いすぎて、
薩摩が今後は龍馬が邪魔になると考えたのではないか。
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龍馬の死後2日後に薩長は出兵協定を交わして結束を固め、
12月9日の小御所会議で強引に王政復古のクーデターを仕掛けているのだが、

このままいけば、新政府の「大功」が龍馬に奪われかねないとの考えが薩摩藩になかったか。

また明治に入って西郷隆盛が龍馬暗殺容疑のあった今井信郎の助命運動に乗り出したそうだが、これは不可解である。

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さらに薩摩藩は京都見廻組との接点もあった。薩摩と会津は文久三年(1863)に薩会同盟を結んでおり盟友関係にあり、
また京都見廻組の佐々木只三郎と懇意な薩摩藩士が何人かいて、居場所を伝えたことは考えられる。

薩摩黒幕説は、証拠は乏しいがなかなか説得力がある。龍馬暗殺については、

紹介した以外にも多数の説があり、何が歴史の真実であるかは正直なところよく分からない。

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調べれば調べるほどいろんな説が出てきて、正反対の主張する人もいてまとめるのに随分苦労した。

黒幕については、土佐藩、紀州藩など他にも様々な説がある。

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京都見廻組・今井信郎と龍馬暗殺

刀

元京都見廻組の今井信郎が没

大正7年(1918)6月25日、元京都見廻組の今井信郎が他界しました。一説に坂本龍馬を斬った男ともいわれます。

天保12年(1841)、江戸本郷湯島天神下の幕臣の家に生まれた今井信郎は、安政5年(1858)、18歳で直心影流・榊原謙吉の道場に入門。

僅か2年で免許皆伝を受ける天稟を発揮し、幕府の武芸講習所である講武所の師範代を拝命しています。

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その後、上野国岩鼻陣屋で剣術教授を務めていたところ、慶応3年(1867)5月に江戸に呼び戻され、京都見廻組への編入を申し渡されました。

今井が上洛して見廻組の一員となったのは同年10月のことで、見廻組肝煎という幹部としての待遇でした。

それからおよそ1ヵ月後の11月15日、坂本龍馬、中岡慎太郎が京都近江屋において何者かに殺害されました。

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当初、新選組が疑われましたが、戊辰戦争後、今井自身が京都見廻組による襲撃であったことを明かしています。

今井の供述では、今井は表の見張り役を務め、手を下したのは見廻組与頭の佐々木只三郎と、渡辺吉太郎、高橋安太郎、桂早之助らであったとしていますが、

いずれも鳥羽・伏見の戦いで戦死が確認されている者たちで、今井は累が他に及ばないように配慮し、意識的に死者の名前を挙げたのではないかといわれます。

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つまり実行犯は彼らではなく、今井と渡辺篤、世良敏郎(いずれも明治初期存命)であり、検分役が佐々木であったろうと思われるのです。

渡辺篤が死の直前に子孫に告白した内容では、近江屋の二階には坂本・中岡だけでなく、3人の書生がいて、

一人は明り取りから逃げ、一人は机の下に頭を入れて震えていたといいます。

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一人が斬られた下僕の藤吉だとすると、残りの2人は通説では暗殺直前に近江屋を出たとされている岡本健三郎と菊屋の峰吉の可能性が高く、

震えていたのが峰吉ならば、彼は一部始終を見ていた可能性があるのです。

当時の坂本龍馬は一年前の伏見寺田屋における捕り方殺害の下手人であり、

見廻組の襲撃は警察行為であって暗殺ではないとする見方もありますが、

それならばなぜ、見廻組は坂本を討ったことを公表しなかったのか、疑問が残ります。

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鳥羽・伏見の戦いで敗れ、主要な隊士を失った京都見廻組は事実上瓦解。今井はその後、古屋佐久左衛門が組織した衝鉾隊に加わり、

副隊長を務めて各地を転戦、箱館戦争終結で降伏しました。

先ほどの龍馬暗殺に関する供述は、明治3年(1870)、新政府の兵部・刑部両省での取り調べにおけるものですが、2年後、今井は特赦により釈放されます。

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口ぞえをしたのは西郷隆盛であったとされますが、なぜ西郷だったのかは不明です。

その後、今井は静岡県初倉村(現、静岡県島田市)で帰農し、やがて村議や村長を務める一方、キリスト教に帰依して、社会活動にも従事しました。

今井信郎については、龍馬の暗殺者というレッテルですべてを見られがちですが、彼が上洛して見廻組に加入したのは龍馬暗殺の1ヵ月前であり、

当時27歳の若者にすれば、事情もよく飲み込めぬまま、任務をこなしたに過ぎなかったのかもしれません。

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彼のその後の行動は幕臣として筋を通しており、龍馬暗殺に関わったことは、

今井にとって恥ずべきものではなかったにせよ、不運な出来事であったというべきなのかもしれません。

今回はとても書ききれないので、次回にその他の黒幕説をまとめることとしたい。
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