坂本龍馬はロスチャイルドのマセソン商会に利用された男にすぎない!

 坂本龍馬はロスチャイルドの代理店マセソン商会に利用された男にすぎない!

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坂本龍馬 ( 1836 – 1867 )幕末混乱期に彗星のごとく現れ、犬猿の仲であった長州藩と薩摩藩を同盟関係に導き、商社の亀山社中(後の海援隊)を設立し、
欧米製の武器を維新軍に提供し、明治維新を成功させた功労者でありますが、その背後には常にフリーメーソン、グラバーの影がつきまとっていました。
坂本龍馬の本名は、直柔(なおなり)で、通称の龍馬は、生れる前に龍が炎を吐きながら胎内に躍りこんだ夢を母が見た事から名づけられたものです。
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龍馬は、1836年1月3日に土佐藩の郷士(ごうし)の家に生を受けましたが、郷士とは、苗字と刀の携帯を許されるだけで、家禄(藩からの手当)はなく、
きちんと藩から給料を受け取っている藩士、すなわち武士とは決定的に異なり、武士の皮をかぶった農民、下層の侍であります。しかしながら、坂本家は裕福で、父八平は弓術・槍術は免許皆伝の腕前で書や歌にも優れ、文武両道を兼ね備えた士道の高い人で、

12才のとき母を亡くした龍馬は、三歳上の三女・乙女姉さんによくなつき、彼女が学問武芸の指導にあたりましたが、

乙女姉さんは一説には、身長5尺8寸(約174cm)体重30貫(約112kg)といわれ非常に大柄で、剣術・馬術・弓術・水泳の得意な豪快な女性であったとされています。

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14歳の時、「日根野弁治道場」に入門し小栗流剣術を学び、19歳のとき「小栗流和兵法事目録」一巻を伝授され、嘉永六年(1853)3月、19歳の時剣術修行のため江戸へ向かい、

京橋桶(おけ)町の北辰一刀流千葉定吉道場に入門しましたが、そこで遭遇したのがペリー提督率いる黒船で、龍馬は攘夷思想の影響を受けました。

坂本龍馬とグラバーが初めて会ったのは1864年2月で、勝海舟とともにグラバー邸を訪れ、彼の人生は大きな転機を迎えました。 龍馬31歳、グラバー28歳の事です。

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幕末に、アメリカの南北戦争が終結し、大量に余った武器や戦艦などが、上海市場に流れ込みました。

ロスチャイルドと縁戚関係にあるジャーディン・マセソン商会が中心的な存在となり武器取引を行っていましたが、グラバーはジャーディン・マセソン商会の代理店として、

日本に武器を輸入する事になり、この時に利用されたのが坂本龍馬であります。

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折りしも、ヨーロッパではクリミア戦争を機に、水力機械メーカーであったイギリスのアームストロング社が兵器製造に事業転換し、

イギリス政府公認の武器メーカーとなりましたが、クリミア戦争の終結と共に経営難を起こし、その株主でもあったロスチャイルドやジャーディン・マセソン商会と組み、

1863年に事業の建て直しを図り、日本市場をターゲットに内乱を起こさせ、武器輸出を計画しました。

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1863年に長州藩が尊皇攘夷の大儀の下、馬関海峡(現在の下関海峡)を封鎖し、航行中の米仏商船に対して砲撃を加えたことに対する報復として、

第一次馬関戦争が勃発し、1864年には海峡封鎖で大きな経済的打撃を受けたイギリスは、アメリカ・フランス・オランダの3国に参加を呼びかけ、

4国の連合艦隊に第二次馬関戦争で徹底的に叩きのめされた長州藩は、欧米の力を見せ付けられ、同時期に薩英戦争で英国に完敗した薩摩藩も、

近代化路線に転向し、欧米からの武器輸入を考え、薩長両藩は一気に倒幕に向かうようになりました。

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第2次長州征伐の開始間近となる1865年5月イギリス、アメリカ、フランス、オランダの四国代表は「四国共同覚書」を作成しました。

これは日本が明治維新の革命が成立した後、イギリスが独占的に明治政府と貿易するのを牽制する目的があったのです。

この内容は、日本の内戦に対する厳正中立、絶対不干渉、密貿易の禁止で、更には日英通商条約の第三条にも 「軍用の諸物は日本役所の外へ売るべからず」 とあり、

武器を他藩に売却することは禁じられていました。

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しかしながら、長州藩はのどから手が出るほど武器が欲しく1万人の藩士を武装させたいと考えており、最低でも7500挺の銃と軍艦を必要としていました。

また、ジャーディン・マセソン商会や、その代理店であるグラバー商会も何とかビジネスをしたいと思っており、そこで考え出されたのがダミー会社である亀山社中(後の海援隊)の設立です。

馬関戦争で長州藩と一戦交えたイギリス政府は、長州への武器ビジネスの許可を下ろさないから、ダミー会社の亀山社中を通じて長州藩に武器を売却する事により、グラバーは、この問題を解決。

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「軍用の諸物は日本役所(徳川幕府)の外へ売るべからず」 という問題に関しては、お金による取引ではなく、物々交換という手段で、グラバーは抜け道を考えました。

米、麦、塩などによる支払いを認めたのであります。

グラバー商会はそれをジャーディン・マセソン商会に持って行き、それを薩摩藩が買い上げるようにし、

薩摩藩とイギリスとは既に武器の売買で気心を通じていたからこの三角貿易が実現したのでありますが、

そして薩摩と長州とを貿易で結んだのが坂本竜馬の亀山社中(後の海援隊)であります。

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すなわち、坂本龍馬の仲介による薩長同盟とは、グラバーとジャーディン・マセソン商会が仕組んだダミー会社(亀山社中)による武器取引であったのです。 

元々下士の身分で、土佐藩を脱藩した身分の低い浪人の龍馬に、仲良くしなさいと言われて、薩長の大名が、 「 はい、そうですか 」 、となるほど江戸時代の封建制度は甘くはありません。

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また、亀山社中は1865年の5月に設立し、7月には既に7300挺の銃のビッグビジネスを長州と成立させていますが、常識ではこのような事はありえません。

これは、長州藩の井上聞多(井上馨)と伊藤俊輔(伊藤博文)が長崎でグラバーと会ってミニエー銃4300挺、ゲベール銃3000挺の購入契約の話を既に済ませており、

坂本龍馬の亀山社中はダミーとして通っていただけであるからなのです。

続いての大型蒸気船ユニオン号については、名義は薩摩藩、運用は長州藩、乗務員は亀山社中というリース契約の形をとる事により、うまく長州藩に引き渡しました。

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坂本龍馬は商売をやった事がないのですから、突然にこのような大型の海外貿易の実務が出来るわけがありません。

それ故、亀山社中の実務は、グラバー邸から少し降りたところにある長崎の豪商の小曾根英四郎(こぞねえいしろう)がグラバーによって選ばれていたのです。

すなわち、坂本龍馬の薩長同盟も亀山社中にしても、全てロスチャイルド、ジャーディン・マセソン、グラバーで全て段取りが出来ていて、それに坂本龍馬が乗せられ、操られていたと言う事が出来ます。

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