もくじ
薩長連合は、国際金融資本が仕組んだ
坂本龍馬が薩長連合を成立させたのは1866年1月。その背後にはグラバーが居た。
そして、薩長連合の成立に遡ること半年の1865年7月、後の日本を背負う薩長の若き留学生達は英国で出会い、サークルを作って親密な交流を始めていた。
両藩の留学をお膳立てしたのは、グラバー、およびアヘンの密輸商人として知られたジャーディン・マセソン商会であり、その背後にいたのがロスチャイルド家である。
ジャーディン・マセソン商会は現在でもアジア最大級の貿易商社であり、サイトを見ればロスチャイルドとの関係も窺い知ることができる。
薩摩藩の英国留学
1865年4月に森を含めた薩藩留学生15人と五代友厚や寺島宗則ら4人の外交使節が海を渡った。
海外渡航は当時国禁であったため、留学生らは藩からそれぞれ変名を与えられ、羽島浦(串木野郊外)から旅立つことになる。
留学生達を乗せた「オースタライエン号(オーストラリアン号)」はグラバー商会所有の船であった。
そして、一行をロンドンで出迎えたのもジェイムズ・グラバーとグラバー商会のライル・ホームである。この二人は留学生達の教育プランの作成や生活面の支援など、広範囲に渡って世話をすることになる。
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ジェイムズ・グラバーはグラバー商会のトーマス・ブレイク・グラバーの兄にあたり、
実質薩摩藩による英国派遣を支援したのはスコットランド生まれのトーマス・ブレイク・グラバー率いるグラバー商会であった。
グラバー商会は、資金の大部分をオランダ貿易会社とジャーディン・マセソン商会に依存していたが、
薩摩留学生の学資もジャーディン・マセソン商会(香港)の信用状にもとづいて、
マセソン商会(ロンドン)が薩摩藩の手形を割り引く形で前貸ししていた。従って、
実質的な薩摩留学生の支援者はジャーディン・マセソン・グループであった。
長州藩の英国留学
(長州藩から英国に留学していた)3人とは野村弥吉(井上勝)、遠藤謹助、山尾庸三であり、1863年5月に同じく密航の形で日本を出発していた。
当初は志道聞多(井上馨)、伊藤俊輔(博文)を含めた5名であったが、聞多と俊輔の2名は、実際に海外に出て攘夷の無謀を痛感し、
タイムズ記事で長州と英米仏蘭との間で戦争が始まるとの情報が入ったことから、留学を放棄し1864年4月にロンドンを発ち、
戦争を中止させるべく奔走していたのである。
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英国では後に長州藩から密航した5人の若者を「長州ファイブ」と呼び、彼らもまた明治維新の原動力となった。この長州留学生はジャーディン・マセソン商会(横浜、英一番館)のウィリアム・ケズウィックや英国領事ジェイムス・ガワーの協力を得て、
ジャーディン商会所有のチェルスウィック号で上海に渡り、ロンドン行きの貨物船ペガサス号とホワイト・アッダー号に分乗しながらロンドンに到着している。
そして、英国留学中の世話役になったのは、ジャーディン・マセソン商会の創業者の一人であるジェームス・マセソンの甥にあたり、
マセソン商会(ロンドン)の社長を長く務めたヒュー・マセソンであった。
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かつて薩長連合は坂本龍馬の奔走により成立したと言われていたが、近年の調査により、その背後にグラバーの存在があったことが明らかになっている。
しかし、彼の関わり方は、単に龍馬を裏で操っていたというものではない。1863年、つまり遅くとも薩長連合成立の三年前から周到に準備されたものである可能性が高い。
グラバー自身の言葉として、「徳川幕府の反逆人の中では、自分が最も大きな反逆人だったと私は思っている」、「このグラバーが日本のため一番役に立ったと思うことは、私がハリー・パークスと薩摩・長州の間にあった壁をブチ壊してやったということです」
やはり、グラバー-ジャーディン・マセソン商会-ロスチャイルドが、明治新政府の陰の立役者であった可能性は高いと言えるだろう。