もくじ
渋沢栄一フリーメイソン傀儡説の謎を追う
一介の農民から身を立て、幕末・明治の動乱を泳ぎ切り、日本経済の礎を築いた偉人、渋沢栄一。現在のみずほ銀行に東京電力、JR、帝国ホテルにキリンビールなどなど、ありとあらゆる分野の企業500社以上を立ち上げ、まさに現代日本の経済をグランドデザインした異能の人だ。
しかし、その一方で、倒幕派の攘夷志士のはずが徳川家の家臣に。さらに明治維新後は敵方だったはずの明治新政府の大物官僚にと、次々と「謎の転身」を遂げ、その度に当時から毀誉褒貶(きよほうへん)の激しかった人物でもあった。
今回は全7回のシリーズとして、この偉人にして異能の人・渋沢栄一の謎多き生涯と、知られざる一面に光を当てていく。中篇にあたる今回は、疑惑の中心にあるロスチャイルド家と渋沢の行動の謎めいたかかわりについて追っていこう。
渋沢栄一は果たしてロスチャイルド家の傀儡だったのか?
前回の記事では、渋沢が幕末のパリ、ロンドンで、秘密結社フリーメイソンすら陰で操る国際金融資本・ロスチャイルド家と結びついた経緯について追ってみた。
しかし、そもそもロスチャイルド家とはどんな歴史を背負い、どんな野望を抱き、そして、どんな手口で当時の国際経済や政治を動かしていたのか?
このシリーズ第4回では、まず、ロスチャイルド家の歴史から振り返っていこう。
ロスチャイルド家は日本の総資産の約8倍! 化け物級の国際金融資本の原点とは?
現在においても、世界最大の金融資本と言われるロスチャイルド家。一説には総資産1京円(日本の総資産の約8倍、ビル・ゲイツ約700人分!)といわれる原点は、
18世紀末、ユダヤ系商人の初代マイアー・アムシェル・ロートシルト(=ロスチャイルドのドイツ語読み)が、ドイツのとある地方国家の御用商人として資産運用を任されたことにある。
その後、5人の息子にフランクフルト、ロンドン、パリ、ロンドン、ウィーン、ナポリで拠点を築かせたマイアー。
彼ら一族は各国の王侯貴族や大資産家から資金を預かり、国際的な情報ネットワークを通じた投資でそれを運用した。
その最大の成功例が、ナポレオン戦争の背後で行なった戦略物資の輸出入(一部は密輸)と戦時公債の投機で、これによりロスチャイルド家は莫大な資産を築いたのだ。
ロスチャイルド家最大の武器とフリーメイソンの関係とは?
では、この一族がフリーメイソンとなぜつながったのか? それにはロスチャイルド家が経済戦争を勝ち抜く上で最大の武器と重視したものにあった。
つまり、誰よりも早く、かつ、誰にも知られず情報をやり取りするルートだ。
「秘して語るなかれ」
これは有名なロスチャイルド家の家訓。資産を預かるクライアントの秘密を口外して信用を失うことを戒めたものと言われるが、一方で、莫大な金を生み出す機密情報は一族の外に絶対に漏らさないロスチャイルド家の商法の肝ともいえる。
事実、ヨーロッパ全土にまたがる機密情報の通信ルートがあることで、この一族は経済戦争に勝ち続けてきたのだ。
そして、同じように情報をメンバー以外に決して漏らしてはならないと厳しく戒めていたのが秘密結社のフリーメイソンだ。しかも、メンバーは各国の王侯貴族や大商人など機密情報をいち早く手に入れることができる上流階級。
情報の価値、機密保持の重要性を誰よりも知るロスチャイルド一族が、この秘密結社のルートを利用しないはずがない。
事実、ナポレオン戦争の戦時公債で「伝説の逆張り」を仕掛け、莫大な財を築いたロンドン・ロスチャイルド家の初代、ネイサン・メイア―・ロスチャイルドはフリーメイソン・ロンドンロッジのメンバーだった。
※なお、実弟でパリ・ロスチャイルド家初代、ジェームズも同じくフリーメイソンのメンバー。
ロスチャイルド家の手口:一国の経済を支配するには……
「一国の中央銀行を支配すればその国全体を支配できる」
「私に一国の通貨発行権と管理権を与えるなら、誰が法律を作ろうと、そんなことはどうでもよい」
これは初代マイアーの言葉とされるが、まさにこの言葉どおり、ロスチャイルド家の最終目標は通貨発行権を握り、一国の経済を(さらには世界の経済を)支配することにあった。そこで取られた手口はおおよそ以下のようなものだ。
大資本家たちからの出資を元手に、銀行、証券取引所などの金融業、鉄道、海運といったインフラ産業、鉱山や精錬所など金属・資源産業といった「カネとモノの流れ」に関わる産業に先行投資。
そこからの利益を戦時国債などの投機でさらに膨らまし、並行して、各国政府などへの貸付も積極的に行なう。
これにより経済だけでなく、各国の政治の動きも左右する力を得る。こうして次第に中央銀行への支配を強め、最終的に通貨発行権を牛耳るわけだ。
ところで、いま挙げた銀行、証券取引所、鉄道、海運、鉱業という業種は、まさに渋沢が真っ先に手掛けた産業と一致している。
それ故、欧州派遣の際に渋沢は、銀行などの金融システムだけではなく、ロスチャイルド家の経済支配の手口も学んでいたのではないか?
あるいは、もっと直接的にロスチャイルドの指示の下こうした産業を立ち上げたのではないか? との疑惑も生まれる。
渋沢栄一が明治初期に不可解な動きの裏にあったのは……
こうした疑惑に加え、欧州から帰国後の渋沢の奇妙な動向も「渋沢栄一=ロスチャイルドの傀儡」という話を補強する一因だ。
例えば、静岡で逼塞中の徳川慶喜の下にいた渋沢は、ある日突然、明治新政府からヘッドハンティングされる。
主導したのは当時の大蔵大輔(=大蔵省のナンバー2)で渋沢と一面識もない佐賀藩出身の大隈重信だった。
さらに、大隈の下、大蔵省(当初は民部省と一体)で渋沢の上司となったのが長州藩出身の伊藤博文と井上馨だ。
佐賀藩、長州藩は倒幕の主力となった薩摩藩ともども、長崎のグラバー商会を通じて大量の武器弾薬を購入していた。
現在では、グラバー自身はフリーメイソンのメンバーではなかったと否定論が優勢だが、このグラバー商会の親会社にあたるジャーディン・マセソン商会の取締役、ヒュー・マッケイ・マセソンはフリーメイソン・ロンドンロッジの主要メンバーだった。
さらに、伊藤と井上に至っては、英国密留学の際の世話役がマセソン自身だったという。
つまり、渋沢の明治新政府への登用や、その後ともに仕事をする重要人物には、3人が3人ともフリーメイソンの陰がチラつくのだ。
さらに、大蔵省時代から下野まで渋沢が行動を共にした井上馨には、全編(第3回)の記事で紹介したようにフリーメイソンとの関りが深いアレクサンダー・シーボルトが私設秘書としてついていた。
渋沢が実業界に転じ、瞬く間に資金を集め次々と起業した際も井上は盟友として助力を惜しまなかったが、
そこにはシーボルトを通じてフリーメイソンまたはロンドン・ロスチャイルド家から、
なんらかの指示や支援があったとも考えられる(あるいは、突然の下野自体がロスチャイルド家の描いた絵図だったのかもしれない……)。
渋沢栄一が日本銀行設立の裏で起きていた「暗闘と謀略」!?
仮に、渋沢がフリーメイソンやそれを裏で操るロスチャイルド家の傀儡だったとしたら、最終目標は中央銀行を牛耳り、通貨発行権を握ることになる。では、日本の中央銀行である日本銀行の設立に渋沢はどう関わったのか?
日本銀行が設立されたのは1882年(明治15)10月。主導したのは後の総理大臣・松方正義で、渋沢自身はトップの総裁職ではなく、一委員の座に留まった。
「じゃあ、渋沢はロスチャイルドの指示を全うできなかったのか?」と考えるだろうが、むしろ、裏できな臭い動きをしていた可能性が高いのだ。
まず日銀設立の5年前の1878年(明治10)、渋沢同様に当時の大蔵卿・大隈重信と対立して大蔵省を追われた松方は渡欧。
そして、渡航先のパリで”ある人物”から中央銀行設立を熱心に奨められたと記録に残っている。
その人物とはアルフォンス・ド・ロスチャイルド、パリ・ロスチャイルド家の二代目当主だ。
薩摩藩出身でイギリス寄りだった松方をロスチャイルド家と繋いだのは誰か?
ましてや中央銀行という金融システムを学ぶよう促したのは? 当時、松方と近かった人物でこの条件に当てはまるのは渋沢栄一しかいないのだ。
さらに1881年(明治14)7月、松方は日銀設立の建白書を提出。
ただ、その当時、松方は大蔵卿の大隈と紙幣の運用法について激しく対立していた。
自伝『雨夜譚』によれば、渋沢は紙幣の運用については松方寄りだったという。
そのため民間銀行を取りまとめていたのだが、政府内の大隈一派から切り崩しを受け、
追い詰められていたようだ。
しかし同年10月、事態は一変。いわゆる「明治十四年の政変」でスキャンダル流出の黒幕として大隈が政府を追われる。
今もって不可解なことの多いこの政変。
黒幕は今も謎だが、大隈が退場したことで得をしたのが渋沢や松方だったのは間違いない。
実際、松方が後任の大蔵卿に就任し、ここから動きは一気に加速。
翌1882年(明治15)10月には日本銀行が設立されているのだ。
維新直後から国家財政を一手に切り盛りしてきた大物が政界から追われた途端、初代ロスチャイルドが「一国の経済支配のカギ」としていた中央銀行が成立。
しかも中心人物はロスチャイルドゆかりの松方、そして渋沢。この裏になんらかの大きな力が働いていたと考えても無理はないところだ。
渋沢栄一は米・FRB設立にも関わっていた?
日本銀行設立から約30年後の1909年(明治42)8月、69歳の高齢を押して、渋沢は米国へ向かった。
米・政財界の大物と交流を深めることを目的とした「渡米実業団」の団長としてだ。
約3カ月にわたり全米を巡り、当時のタフト大統領や”帝国建設者”の異名をとった鉄道王ジェームズ・J・ヒルなどと会談した渋沢だが、この訪米には”秘められた目的”があったのでは、と考えられている。
10月2日、オハイオ州クリーブランドを訪れた渋沢は”ある重要人物”と会談する。
その人物とはロスチャイルド家と匹敵する大富豪で、石油王と呼ばれたジョン・ロックフェラー1世だ。
ロックフェラーと渋沢は歓迎晩餐会を挟み19時から延々と話し続け、渋沢がホテルに戻ったのは深夜1時過ぎだったという。
ロックフェラーも当時70歳、当時としては高齢の二人が寝る間も惜しんで何を話し合ったのか?その答えは翌1910年に形となる。
1910年11月、ジョージア州ジキル島である極秘会議が開かれた。
出席者はロックフェラー財閥の代表やシティー銀行頭取行、さらに「米国におけるロスチャイルド家の代理人」といわれたJ・P・モルガンなど米国経済を牛耳る金融資本家たち。
そして、この会合で米国の中央銀行にあたるFRB(連邦準備制度/連邦準備銀行)の青写真が固められたのだ(実際の設立は1913年)
渋沢ーロックフェラー会談の翌年に開かれた秘密会議。
そして長年停滞していた中央銀行設立の動きの急激な加速。この流れを見れば、渋沢が日本銀行設立で得た経験と知識、
さらに、その背後にあった”大きな力”からのメッセージを伝える役目を担っていたのでは? と考えても無理はない。
日本と米国、二つの中央銀行設立に関わっていたと考えられる渋沢。
となれば、渋沢がフリーメイソンやそれを裏で操るロスチャイルド家の傀儡だったという都市伝説も「本当なのでは?」と思う方も少なくないだろう。
しかし、今回、調査を進める中で、こうした話を根こそぎひっくり返すような新事実の断片が次々と見つかった。ひと言でまとめるなら、
「渋沢栄一はフリーメイソンやロスチャイルドすら手玉に取った深謀遠慮の男だった!」
というもの。この驚くべきストーリーと新たな話の数々は次回、「渋沢=フリーメイソン傀儡説の謎を追う」の後篇で一気に紹介する。