もくじ
渋沢栄一のフリーメイソン傀儡説の謎を追う
一介の農民から身を立て、幕末・明治の動乱を泳ぎ切り、日本経済の礎を築いた偉人、渋沢栄一。現在のみずほ銀行に東京電力、JR、帝国ホテルにキリンビールなどなど、ありとあらゆる分野の企業500社以上を立ち上げ、まさに現代日本の経済をグランドデザインした異能の人だ。
しかし、その一方で、倒幕派の攘夷志士のはずが徳川家の家臣に、さらに明治維新後は敵方だったはずの明治新政府の大物官僚にと、次々と「謎の転身」を遂げ、その度に当時から毀誉褒貶の激しかった人物でもあった。
今回は全7回のシリーズとして、この偉人にして異能の人・渋沢栄一の謎多き生涯と、知られざる一面に光を当てていく。第5回は渋沢栄一の生涯で最大のミステリー、あの秘密結社・フリーメイソンとの因縁を紐解く第二弾。渋沢はフリーメイソンの傀儡(かいらい)だったのか? その疑惑をひっくり返す「点と線」を結んでいく。
渋沢栄一とフリーメイソン、知られざる暗闘?
「幕末維新の偉人たちと同様、渋沢栄一もフリーメイソンの傀儡に過ぎなかった」
「日本銀行設立はフリーメイソン(≒ロスチャイルド家)の指示に従った日本支配の手段だった」
「新一万円札の肖像に渋沢が起用されたのも、世界を支配する秘密結社からのシグナルだった」
などなど、渋沢とフリーメイソンを繋ぐ陰謀論は少なくない。第3回(前編)・第4回(中編)ではこの切り口に従って若き日の渋沢とフリーメイソンの繋がりについて追ってみた。
実際、人生の転機となった欧州派遣をきっかけに、渋沢の周辺にはフリーメイソンに繋がる人物が数々登場。農民出身の一人の男の力だけでは、あれだけの偉業を成し遂げられたのか疑問に思われる読者も少なくないだろう。
しかし……この記事をまとめる過程で、渋沢の日記や記録を見ていくと、「本当に渋沢はフリーメイソンあるいはその裏で蠢くロスチャイルド家に唯々諾々と従って、日本を売り渡したのか?」と疑問に思われる事実が次々と明らかになったのだ。
渋沢栄一と相容れない思想のロスチャイルド
後半生において、民間外交や社会福祉に精力を注いだ渋沢のスタンスは、「自由・平等・友愛・寛容・人道」というフリーメイソンの信条とかなり近いものを感じさせる。
また、合理主義を旨とする点も、フリーメイソンと渋沢に共通するポイントだ。
その一方、ロスチャイルド家の「一族の結束が第一」「資産を殖やすことこそ善」といったポリシーは、渋沢のそれとはかなり相反するものだったと考えられる。
渋沢栄一は自らや一族に財閥化も投機も禁じた
例えば、渋沢は起業はしても、それを一族で独占することも財閥化することもなかった(もちろん、ロスチャイルド家は一族や婚姻関係で結ばれた”クラン”で独占)。
また渋沢は、自身はもちろん、一族にも投機で財を築くことを禁じた(これも投機に次ぐ投機で莫大な資産を築いたロスチャイルド家とは正反対といえる)。
渋沢栄一とロスチャイルド流との決定的な違いとは?
そして、最大の違いが渋沢が唱えた「合本主義」にあった。この思想、渋沢の言葉を借りれば、
「一滴の水が追々に相合して、遂に大河をなす」
「小資本を集めて大資本となす」
というもので、私利私欲ではなく公益のため資本や人材、物資を集めて事業を起こすというもの。
これは王侯貴族や大商人といった大資本家から金を集め、事業や投機に資金を投じて利益を得るというロスチャイルドの流儀とは正反対のものだ。
では、この「合本主義」の源流はどこにあったのか? 実はここに再びフリーメイソンの影響が見て取れる。
前編・中編で紹介した、ロスチャイルド家が裏で操ったとされるフリーメイソンとは別、「もうひとつのフリーメイソン」の存在があったのだ。
「もうひとつのフリーメイソン」カギを握るのはあの男だった!
渋沢が唱えた合本主義の源流、それはフランスで起こった社会経済思想、サン=シモン主義だとされる。
ある種の社会主義ともいわれるこの思想、無理矢理ひと言でまとめれば、「生まれや育ちではなく、能力のある人々が上下の別なく連帯して社会を理想の方向へと導く」というもの。
ただ、実態はなかなかややこしい。
合理主義や能力主義、産業による発展を唱える一方で、メンバーの集まる拠点を「教会」と呼び、疑似宗教のような形も取る(こうした組織作りにフリーメイソンの影響を指摘する研究者もいる)。
フランス経済を救ったサン=シモン主義
で、このサン=シモン主義を形にするための手立ての一つが銀行や物流、交通インフラとされ、特にサン=シモン主義を元にした銀行が多数設立された。
平等な市民の連帯を標榜する銀行だけに、広く中産階級から資金を集め産業に投資。フランス革命、ナポレオン戦争でどん底だったフランス経済をV字回復させた原動力になったともいわれる。この点からも、
「金持ちから集めた金で運用してさらに金持ちに。なんなら一国の経済まで支配してしまえ!」
というロスチャイルド流のやり方とは正反対なのがわかるだろう。
また、もともと不合理な身分制度が大嫌いで、ゴリゴリの合理主義者だった渋沢がサン=シモン主義に一目でほれ込むのも無理ないところ。
そしてこれが後に、合本主義へと発展していくわけだ。
渋沢栄一にサン=シモン主義を紹介したのは……
では、サン=シモン主義を渋沢に紹介したのは誰だったのか?
読者の皆さんも既にお気づきのように、第4回で登場したポール・フリュリ=エラールだ。
後述するが、実はこのフリュリ=エラールは祖父の代からのサン=シモン主義者だったと考えられる。
ただそうなると、「あれ? でもフリュリ=エラールってロスチャイルドの犬じゃなかったっけ?」と思われるはず。
なぜ、サン=シモン主義者の彼がロスチャイルドの下で働いていたのか、次に見ていこう。
ロスチャイルドVSサン=シモン主義者、仁義なき金融戦争!
実は、渋沢がパリに到着した1867年は、ロスチャイルド家にとって記念すべき勝利の年だった。
ロスチャイルド家は1855年、”ある銀行”に対抗するため大資本家たちとシンジケート団を結成。それが後の「ソシエテ・ジェネラル」(銀行としては1864年設立)だ。
それから10年以上、激烈な争いを繰り広げてきた銀行こそが、サン=シモン主義者の銀行「クレディ・モビリエ」だった。
当初はフランス経済をけん引し、時の政府ともガッチリ手を握っていたクレディ・モビリエが圧倒的有利だった。
しかし、二大銀行として覇を競う中で、次第に潮目はソシエテ・ジェネラルへ……。
度重なる投資の失敗もあり、この1867年、遂にクレディ・モビリエが倒産したのだ。
なりふり構わぬ手段に出たロスチャイルド家
ロスチャイルド家の完全勝利の原因は「敵(=クレディ・モビリエ)のセールスポイントを丸パクリすること」。
勝利のためには手段を選ばないロスチャイルド家らしいが、具体的には、サン=シモン主義者やその系列の銀行を自派に引き込んだのだ。
恐らくその流れの一環で、フリュリ=エラール銀行もロスチャイルド家の支配下になったと考えられる。
つまり、サン=シモン主義者にしてロスチャイルドの配下というねじれた立場にいたのが、渋沢の金融の師・フリュリ=エラールだったわけだ。
そして、フリュリ=エラール家の歴史を辿ると、再びあの秘密結社の姿が現れてくる──。
渋沢栄一とフリュリ=エラール家の謎とフリーメイソンの因縁
フリュリ=エラール銀行の大元は、母方の祖父、ジョセフ・エラール・ド・ヴィリアスの創業に遡る(父方の姓が「フリュリ」で母方の姓が「エラール」)。
この祖父・ジョセフが変わった経歴の持ち主で、元々は軍人で大佐まで上り詰めたにもかかわらず、突如、銀行家に転身する。
そして彼が所属していた軍隊というのが、フランス革命の際に、革命防衛隊として中産階級を中心に設立された「国民衛兵」という民兵組織だった。
現在のフランス国旗、いわゆる三色旗はそもそもこの革命防衛隊の帽章として考案されたもので、「自由・平等・博愛」を示すという。
祖父は「フリーメイソンの英雄」の部下だった!
このキーワードでピンと来た方もいるだろう。この3つの言葉は、フリーメイソンの5つの信条から借用したものだとされる(寛容と人道が抜けているせいで血みどろの粛清が起きたとの声も……)。
歴史研究者の間でも、フランス革命をフリーメイソンが支援していたのはすでに常識だという。
しかも、この三色旗を制定した国民衛兵の司令官こそが、「両大陸の英雄」「当時最も有名だったフリーメイソン(秘密結社なのに?)」と言われたラファイエット侯爵だった。
つまり、フリュリ=エラールの祖父、ジョセフはフリーメイソンの超大物の部下として薫陶を受けていたのだ。
しかも、このラファイエットの部下には、もう一人、重要人物がいる。
「両大陸の」と二つ名が付くことからもわかるように、ラファイエットはアメリカ独立戦争に義勇軍を率いて参戦している。
そして、この義勇軍に士官として参加していたのが、サン=シモン主義という名の由来となった社会主義思想家、アンリ・ド・サン=シモンだったのだ。
まさに、フリーメイソン─サン=シモン主義─フリュリ=エラール、そして渋沢栄一が1つの大きな流れとしてつながったこととなる。
渋沢栄一はフリーメイソン人脈を何に利用したのか?
フリュリ=エラールを通してラファイエットの流れを汲むフリーメイソンとも渋沢が関りをもっていたとすると、第5回中篇で紹介した1909年(明治42)の渡米も、また別の意味をもってくる。
日米友好を目的とした渡米実業団だが、そもそものきっかけは当時の米国で急速に浮上していた日本人排斥運動、いわゆる黄禍(こうか)論にあった。
その状況でアジアの新興国・日本の実業団が、なぜ全米の政財界や一般市民から熱烈な歓迎を受けることができたのか?
フリーメイソンゆかりの施設でメンバーと会談!?
そこにはマスコミや世論を誘導するだけの力がある組織、つまりフリーメイソンの助力がなければ実現できなかっただろう。
事実、渡米実業団を自ら出迎えたタフト大統領はフリーメイソンのメンバーであり、歓迎会が開かれたのはミネソタ州ミネトンカ湖畔にある「ラファイエット倶楽部」。
そもそも、ジョージ・ワシントンやベンジャミン・フランクリンなどアメリカ独立戦争の中心人物はフリーメイソンのメンバー。
ラファイエット義勇軍もその人脈で参戦したもの。
つまり、アメリカにはラファイエットに繋がる欧州のフリーメイソンとの固い絆があったのだ。
そのラファイエット人脈に繋がる渋沢率いる渡米実業団も、全米のフリーメイソンが支援するという明らかなメッセージとして、会談場所にここが選ばれたと考えてもおかしくはない。
渋沢栄一の後半生を彩るフリーメイソン人脈
渋沢は後半生を民間外交に捧げたが、その時、「自由・平等・友愛・寛容・人道」という信条を掲げるフリーメイソンが力になったのは想像に難くない。
実際、渋沢は数々の世界的著名人とも交流しているが、その中の少なくない人物がフリーメイソンのメンバーだったのだ(例えば、日露戦争の戦費の大半を融通した銀行家、ジェイコブ・シフを自邸に招いているが、彼もフランス系のフリーメイソンだ)。
渋沢栄一を絶賛したドラッカーの真意とは……?
金融・経済の面ではロスチャイルド家が主導権を握るフリーメイソンの力を借りつつ、合本主義の建て付けや民間外交においては「もうひとつのフリーメイソン」の知恵や人脈を活用する。
こう見ると、「渋沢栄一はフリーメイソンの傀儡だった」というよりは、うまく利用していた印象が強い(もっとも、渋沢亡き後の日本が国際金融資本やフリーメイソンの軛から逃れらたかは別の話だが……)。
こんな渋沢を称賛して、”マネジメントの神様”ピーター・ドラッカーは、
「彼らの偉業は、ロスチャイルド、モルガン、クルップ、ロックフェラーを凌ぐ」
(『断絶の時代』ピーター・F・ドラッカー)
とその著書の中で断言している(なお「彼ら」のもう一人は、渋沢終生のライバルで三菱財閥創始者・岩崎弥太郎)。
”神様”の目は、渋沢がフリーメイソンや国際金融資本を利用して、日本の資本主義経済を創り上げたことをお見通しだったのかもしれない。
ドラッカーの父はフリーメイソンのグランドマスター!
というのも、ドラッカーの父・アドルフは、オーストリア=ハンガリー帝国の財務官僚である一方で、オーストリア・ロッジのグランドマスターだったのだ(ドラッカー自身も自著で認めている)。
であれば、新興国・日本の目覚ましい経済発展の立役者・渋沢栄一が、フリーメイソンゆかりの人物であることを父から聞いていたとしてもおかしくない。
そして、フリーメイソンを自らの利益のために利用していたロスチャイルド家など国際金融資本を、いいように手玉に取った渋沢の行動に最大の賛辞を贈ったのではないだろうか……?