渋沢栄一は海外視察の体験で「民間の力」こそが国を反映させると悟!

新1万円札の渋沢栄一 玄孫が語る“日本資本主義の父”の誕生秘話

新1万円札の表のデザインには「日本資本主義の父」と呼ばれた、実業家・渋沢栄一(1840~1931)。約500もの企業と約600もの社会事業の設立に関与。東京慈恵会、日本赤十字社などの社会事業や商法講習所(現・一橋大学)や日本女子大学などの教育機関の立ち上げにも参加した。

渋沢栄一の現像力は武士への不満がはじまりだった

「民間の力を高めたい」

海外視察での体験も大きかった。

1867(慶応3)年にパリ万博を視察した際、船でスエズ運河を通って行ったのですが、その運河が民間企業の資金を集めたことによって出来たことに栄一は大変驚いたのです。

西洋では民間でも公の大事業を担うことが出来るのか、と。

そこで帰国後にまず静岡で、商法会所という金融と商社機能を持ついまで言う「会社」を立ち上げます。

それが軌道に乗り、明治政府にスカウトされ、大蔵・民部両省で度量衡の制定や国立銀行条例制定に携わります。

ところが予算編成を巡って大久保利通と対立し、わずか4年で退官。官尊民卑の風潮の中で「お前は堕落している」との批判も受けたようです。

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しかし栄一はそれに屈せず、官僚時代に設立を指導していた第一国立銀行の頭取に就任すると、東京瓦斯(現・東京ガス)、東京海上保険(現・東京海上日動火災保険)、王子製紙と次々に企業の設立に参加していきます。

同時に東京慈恵会、日本赤十字社などの社会事業や商法講習所(現・一橋大学)や日本女子大学などの教育機関の立ち上げにも関わります。これも民間の力を高めたいという気持ちからのものでしょう。

渋沢栄一が亡くなるまで残し続けた思想

事業においてもう一つ栄一が大切にしていたのは「持続性」です。

著書『論語と算盤』には「経営者一人がいかに大富豪になっても、そのために社会の多数が貧困に陥るようでは、その幸福は継続されない」とある。

企業が利益だけを追求し、資本を蓄積するだけでは豊かさは永続しない。

社会に還元していくことで、長期的には社会発展という形で次の世代につながっていき、結果的に企業も永続することになる、という考えです。

いまのサステナビリティーの原型ですね。

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その思想のお陰で渋沢家には財産は残っていません。500もの企業の設立に関わったので、押入れのどこかに株券の1枚ぐらい入っているのではないかと探してみましたが、ありませんでした(笑)。

ただ格好いいことを言うようですが、栄一は91歳という高齢で亡くなる最後まで、数多くの言葉を残してくれています。

『論語と算盤』にしても、私が独立したときに読んだ『青淵百話』にしても、いまの世にも通じる示唆に富んだ言葉ばかりです。

それだけ現代の日本でも彼の思想は求められているということでしょう。

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勉強するようになったのは、2001年、投資コンサルタントとして独立しようと思い立ったときです。

自分で会社を作るなら、一生で500もの会社を作ったという曾々お祖父さんの言葉を読んでおこうと思ったのが切っ掛けでした。

例えば『青淵百話』という書籍の中には、今の言葉で言うなら「リスクを取りなさい」ということが書いてあります。

そこで「これはいまの仕事にしっくり来る言葉だな」と都合のいいように解釈したりして、栄一研究にのめり込んでいきました。いまでは栄一に関する著書も何冊かあります。

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様々な書物を読んで分かったのが、栄一が事業を興す際に大事にしていたのは、第一に「民間の力を高めなければならない」ということです。

そこには彼が埼玉県深谷市の富農の生まれだったことも関係しているでしょう。

彼が生まれた江戸時代の秩序ではもちろん「士農工商」。武士が一番偉くて、商売人は下です。

武士に対して、仕事もしないのに年貢だけ要求しやがって、というフラストレーションがあった。

明治維新によってその旧秩序が崩壊した時に、彼のフラストレーションを解消したのが、民間における起業だったのだと思います。

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