もくじ
渋沢栄一の奥さん激オコ!?「生涯現役」な絶倫伝説!
一介の農民から身を立て、幕末・明治の動乱を泳ぎ切り、日本経済の礎を築いた偉人、渋沢栄一。現在のみずほ銀行に東京電力、JR、帝国ホテルにキリンビールなどなど、ありとあらゆる分野の企業500社以上を立ち上げ、まさに現代日本の経済をグランドデザインした異能の人だ。
しかし、その一方で、倒幕派の攘夷志士のはずが徳川家の家臣に、さらに明治維新後は敵方だったはずの明治新政府の大物官僚にと、次々と「謎の転身」を遂げ、当時から毀誉褒貶(きよほうへん)の激しかった人物でもあった。
今回は全7回のシリーズとして、この偉人にして異能の人・渋沢栄一の謎多き生涯と、知られざる一面に光を当てていく。第6回は絶対に大河ドラマでは放送できない明治の偉人の知られざる性豪伝説を紹介。
渋沢栄一は日本資本主義の父、だが、唯一の弱点は「美女」だった!?
「明眸皓歯(めいぼうこうし)に関することを除いては俯仰(ふぎょう)天地に愧じることなし」
パッと見は、まるで天に向かって拳を突き上げる世紀末覇王のようなセリフ。だが意訳すれば、
「カワイコちゃん絡み以外は、世間様に恥じることはないんだけどね……」
と小指を立てて頭を掻いているオジさんのぼやきみたいだ。
この名言(迷言?)の主こそが、日本資本主義の父・渋沢栄一。
実際、この言葉どおり、明眸皓歯(=美女)にはからっきし弱かったようである。
第2回でも紹介したように、父から託された逃走資金100両のうち四分の一を吉原遊郭で散財した渋沢。「明日をも知れぬ身の上だったから……」と言い訳しているが、どうも、もともと精力旺盛なたちだったようで、若い頃から女遊びをしていた疑いがいくつかの資料から伺える。
渋沢栄一は「もう浮気しないから許して!」妻・千代へ釈明の手紙?
決定的なのが故郷に残した妻・千代への手紙の一節。
「相わかれ候よりハ一度も婦人くるひ等も不致全くくに之事のみしんはいいたし居申候」
(意訳/お別れしてからは一度も女遊びにハマったりしないで、100%国の事だけ考えています!)
離れて暮らす妻にわざわざ「もう女遊びしてません! 真面目に暮らしてます」と宣言しなければならないくらい信用がなかったようだ。
この他にも、筆まめだった渋沢は20通以上の手紙を千代に送っているのだが、その文面をよく見ると(以下、意訳)、
「来年こそ京都に呼び寄せるから(一緒に暮らそう)」
「手紙の返事来ないんだけど……」
「くれぐれも短気を起こさず、手計村の兄さん(=尾高惇忠)に相談を」
「武士の妻に愚痴と悋気(りんき/嫉妬心)は厳禁。いや、悋気を抱かれるようなことしてないけど……」
などなど、千代を宥めすかしている様子が見て取れる。なかには「おひさ」「おやま」という女性に関して、妻・千代からの「浮気疑惑」を必死に解こうとしているらしい文面もあるのだ。
まあ、幕府の追手から逃れて京都に向かってから約5年、実家と一人娘の面倒を任せっきりにしていたのだから、アタマが上がらないのも無理はないところ。
渋沢栄一は芸者付き接待にブチ切れ!? 京都カタブツ生活
では、家を離れていたこの5年間、手紙にあるとおり“婦人ぐるい”もせず、真面目に暮らしていたのか? 京都時代には一橋家の上役から「一人寝は寂しいだろう」と一夜のお相手を紹介されブチ切れて帰るとか、祇園で芸者を侍らせての接待にブンむくれるとか、カタブツぶりを発揮している。
とはいえ一方で、新選組隊士と女の取り合いになり殺されかけたとか、欧州派遣の際、パリでとある貴婦人にラブレターを出してこっぴどくフラれたといった真偽不確かな噂もチラホラ。
決してイケメンではないが、まめで愛嬌のある渋沢は男女を問わずモテたので、妻・千代に操を立てるのはひと苦労したことだろう。そもそも精力旺盛でもあるし……。
渋沢栄一の本領発揮!? 昼も夜も精力全開で会社設立も愛人も続々と……
さて、その精力旺盛ぶりが遺憾なく(?)発揮されたのは、明治維新が成ってから。
第3回でも紹介したように謎のヘッドハンティングで新政府に出仕。4年弱で下野した後、第一国立銀行を皮切りに、製紙会社から海運、ガス会社などなど次々と会社を立ち上げ、「資本主義の父」への道をばく進した渋沢。
精力的に日本全国を駆け巡り、生涯で500以上の企業の設立に関わったとされるが、ちょうど30代から40代にかけてのこの時期は、私生活のほうもかなり精力的。
こちらでも3ケタを超える”結果”を残したという噂がある。
渋沢栄一は70代目前もバリバリ現役で「若気の至り」!?
なんと最初の妻・千代、後妻・兼子(旧姓・伊藤)との間に授かった子ども(嫡出子)に、公式に記録されている妾3人との間の子どもを含め、一説には100人以上の子をなしたというのだ。
当然、公に記録されていない愛人は数えきれないほど。
還暦目前で20代前半の妾を抱え、しかも、68歳の時に彼女との間に子どもまでもうけているのだ! もう精力フルスロットルというか”幕末維新の性豪”というべきか……。
さすがにこの時は、記者に直撃され、
「いや、お恥ずかしい。若気の至りでつい……」
と名言(迷言?)を漏らした渋沢。いやいや、68歳で”若気”レベルなら、働き盛りの30~40代はどれだけ大暴れしていたことやら……さすが自ら「婦人ぐるひ」というだけある絶倫ぶりだ。
ちなみに、当時の認識では「妾」は妻公認で衣食住の面倒を見ている女性のこと。
それ以外に隠れてお付き合いしている人を「愛人」と見なしていたようだ。
なお、渋沢はパリ帰りだけに愛人たちのことをフランス語の「アミ(友人と愛人の二つの意味)」と呼んでいたようだ。
変なとこだけ洒落ているのはご愛敬。いずれにせよ”友人関係”には恵まれていたと言える。
渋沢栄一は次から次へと愛人を自宅へ……仲良き事は美しき哉?
妻公認のお妾さんたち3人にはなかなか面白いエピソードがある。まず最初の一人、大内くに。渋沢が大蔵省に在職中、造幣局へ単身赴任していた大阪で出会った女性だ。
もともと幕府の女官だったとも、京都にいた幕府の役人の妻だったともいわれる。
維新後、大阪で料亭の女中をしているところを見初められ渋沢と”大人の関係”に……。
しかも渋沢は豪胆なことに、単身赴任が終わると千代と娘が暮らす東京の家にくにを連れ帰る。
現代の感覚ではとんでもない話だが、当時は「妻妾同居」は珍しいことではない。
ただ、長年家を空けっぱなしでやっと一緒に暮らせると思ったら「家族が一人増えました(しかも美女が)」では、千代も内心たまったものではなかっただろう。
とはいえ、千代の度量がよほど広かったのか、妻妾息が合ったのか、くにが生んだ二人の娘ともども仲良く暮らしたようだ。
どうも渋沢は大阪の女が好みだったのか、後に二人目の妾として迎えた田中久尾も大阪出身。
こちらもやはり妻妾同居で、1876年(明治9)の夏から暮らしていた深川福住町(現在の門前仲町)の渋沢邸で共に生活していたことが分かっている。
渋沢栄一は明治時代の”文春砲”に愛の巣をすっぱ抜かれる!?
なぜこんな細かいことまでわかっているかと言うと、実は当時の新聞にすっぱ抜かれていたのだ。政界・財界のスキャンダルを暴き出し”まむしの周六”と恐れられた、黒岩涙香が主筆を務める「萬朝報(よろずちょうほう)」がそれ。
同紙の連載「弊風ー斑蓄妾の実例」は、伊藤博文から森鴎外、今では名も知らぬ人々まで手当たり次第に妾との関係や現住所まで(!)暴露するスキャンダル記事
。いわば”明治の文春砲”とでもいうところ。そして、ここに我らが資本主義の父の名もあった。
記事によれば、田中久尾は歳の頃28~29歳(記事掲載の1898年当時)で、「大阪より連れきたりし」「古き妾(ひどい書きようw)」で「深川福住町四番地で同居」とある(但し、伝記資料によれば記事掲載当時の自宅は兜町二番地だったらしい)。
千代は1882年(明治15)に亡くなっているので、久尾と同居していたのは後妻の兼子だろう。
この兼子夫人、後に渋沢の女癖についてキツ~イ名言(?)を放っているので、当時も思うところはあっただろう。
さらに、この記事にはもう一人、同時並行で愛の巣を構えていた女性についても暴露されている。
それが3人目の妾、鈴木かめ(24歳)。
もともとは元吉原仲の町の置屋・林家の芸者、小亀だったのを身請けし、日本橋浜町三番地(現在の浜町、明治座の裏あたり)の別宅に住まわせていたという。
ちなみに先述の68歳で子どもを授かったのが彼女との間。かめ34歳頃のことだ。
このかめとの愛の巣が、よく渋沢の艶聞エピソードで語られる「浜町の友人の家」と推測される。手短にまとめると、
ある晩、部下が会社の一大事を急ぎ渋沢に伝えようと、浜町にある「友人の家」を訪ねたところ、
家の奥から「渋沢がこんな場所にいるはずがありません、と伝えなさい!」と大声で居留守を指示する声が響いたという話。
自分で構えた愛の巣を「こんなところ」とはずいぶんな言いざまだが、よほど慌てていたのだろう。こんな人間臭い部分も、渋沢の魅力というべきか……。
渋沢栄一:職・住接近ならぬ、職・住・女接近? 自宅の目と鼻の先で芸者遊び?
ところで、林家小亀こと鈴木かめが芸者をしていた「元吉原」、青春時代に渋沢が豪遊した吉原遊郭と勘違いしがちだが、こちらは現在の人形町にあった「芳(葭)町(よしちょう)」のこと。
もともと江戸初期に吉原遊郭がこの地にあったため「元吉原」と言われ、明治のこの頃は東京を代表する六花街の一つとして賑わっていた。
主な顧客は隣の蛎殻町(かきがらちょう)にあった米相場と兜町の株式相場の関係者だったという。
そこで、当時の地図を見ていただきたいのだが、萬朝報にすっぱ抜かれた当時の渋沢の自宅が兜町二番地(現在の兜神社があるあたり)。
小亀(鈴木かめ)と出会った芳町は日本橋川を挟んで目と鼻の先、さらにちょっと足を延ばせば小亀との愛の巣があった浜町三番地。
渋沢が代表を務めていた第一国立銀行や東京証券取引所はもちろん自宅のそばだったので、半径500メートルほどの円内に自宅も仕事場も芸者遊びのホームグラウンドもあり、なんなら妻も二人の妾も暮らしていたというわけだ。
若き日から合理主義の塊のようだった渋沢とはいえ、何もここまで効率化しなくてもいいと思うが……。
さらに萬朝報の記事に面白い記述があった。
小亀と同じ林家の芸者で「かめ子」こと塙かめ(23歳)を身請けしたのが、古河財閥の創始者・古河市兵衛。
記事では足尾鉱毒事件に引っ掛け「鉱毒大臣」だの「有名なる蓄妾家」だの散々な書かれよう。
この古河、実は渋沢が静岡にいた頃からの長い付き合いで、実業界における盟友の一人。
その二人が同じ置屋の同じような源氏名を持つ芸者を揃って身請けしていた(しかも、古河とかめ子の愛の巣も浜町!)。
仕事だけでなく、二人が悪所通いの遊び仲間だったことまで暴露されていたのだ。
渋沢栄一の規格外の女癖に呆れた後妻・兼子が放った痛烈なひと言
これだけ派手に遊んでいれば、いくら明治の偉人とはいえ家庭内はさぞ荒んでいただろう……と思いがちだが、近親者の証言によれば、庶子も含め仲睦まじい家族だったようだ。
徳川慶喜や明治新政府の元勲たち、果てはアメリカ大統領まで(もちろん数々の女性もw)惹き付けた人間的魅力のなせるわざと言うべきだろう。
ただし、妻としてはひと言申し上げたいこともあったようで、後々に後妻の兼子が子どもたちに溢した痛烈な皮肉がよく知られている。
「大人(たいじん)※も論語とはうまいものを見つけなさったよ。
あれが聖書だったらてんで守れっこないものね」
※「大人」とは渋沢のこと。旦那様というニュアンス
まったくそのとおりw 姦淫を戒めるキリスト教だったら一発アウトだ。とはいえ、渋沢当人も女性にからっきし弱い自分の性格が子どもたちに遺伝してはまずいと思っていたらしい。自らまとめた渋沢家家憲(家訓)の中で、こう記している。
「凡そ子弟には卑猥なる文書を読ましめ、卑猥なる事物に接せしむべからず、
又芸子芸人の類を近接せしむべからず」(渋沢家家憲第三則・八条)
(子どもたちにはいやらしい本を読ませない。いやらしい物や場所に近づけないこと。
それに、芸妓や芸人などに近づけるのもダメ、ぜったい!/意訳)
これもご説ごもっともではあるが、これまでの性豪ぶりを知ってしまうと、苦笑いしか出てこない。もっとも、こういう完全無欠の聖人君子でないところが、むしろ渋沢栄一の魅力だったと語る人も少なくない。こうして苦笑いやツッコミが入るのも承知の上なのかもしれない。
ちなみにこの家憲、毎年正月には一族揃ったところで読み上げるのが恒例だったそうで、兼子令夫人はどんな顔でこれを聞いていたことやら……。