もくじ
渋沢栄一の若き日のクズ男伝説
一介の農民から身を立て、幕末・明治の動乱を泳ぎ切り、日本経済の礎を築いた偉人、渋沢栄一。現在のみずほ銀行に東京電力、JR、帝国ホテルにキリンビールなどなど、ありとあらゆる分野の企業500社以上を立ち上げ、まさに現代日本の経済をグランドデザインした異能の人だ。
しかし、その一方で、倒幕派の攘夷志士のはずが徳川家の家臣に。さらに明治維新後は敵方だったはずの明治新政府の大物官僚にと、次々と「謎の転身」を遂げ、その度に当時から毀誉褒貶(きよほうへん)の激しかった人物でもあった。
今回は全7回のシリーズとして、この偉人にして異能の人・渋沢栄一の謎多き生涯と、知られざる一面に光を当てていく。第2回は後に幕末・明治の偉人と称されるとは、とても創造できない、若き渋沢のクズっぷりを伝えるエピソードを追う。
渋沢栄一は周りもドン引く「借金大王」の散財っぷり
シリーズ第1回で紹介したように、日本中を戦乱の坩堝(るつぼ)に引きずり込む鬼畜な「無差別外国人テロ計画」を起こそうと企んでいた、テロリスト・渋沢栄一。
しかし、幸いにも計画は未遂に終わり、一転、逃亡の旅に出ることになった。ただ、一つ渋沢には片づけなければならない問題が……。
実は、家業の養蚕や藍玉作りの商いのカネから、テロ計画の武器購入などで「150~160両ばり」(渋沢栄一の自伝『雨夜譚』の記述より)使い込んでいた渋沢。
10代の頃に役人から「御用金500両用意せよ」と言われてブチ切れていた人間が、外国人をぶった斬るための刀や槍を買うため、これだけの大金を家からくすねていたのだから、金銭感覚どうなの? と疑いたくなるところ。
渋沢栄一は1両=2万円として、テロ資金に300万円使い込み!
金銭感覚といえば、「いったい150両っていまのカネでどれぐらいの感覚?」と気になる方も少なくないはず。幕末当時の一両については下は4000円から20万円と諸説紛々。
米価を基準にするか、賃金を基準にするかで大きな開きがあるうえ、物価が乱高下していた時期なので「これ」と決めるのは難しいのが正直な話。
しかし、渋沢本人が後に明治後期の講演で「当時の一両はいまの一円と同じぐらい」という旨を語っていた。これを基準にすれば、幕末の一両=明治後期の1円=現在の2万円という計算が成り立つ。そこで、今回はこの計算式を基準に話を進める。
さて、この”テロ資金”の使い込み、若き渋沢はどう片づけたのか──?
渋沢栄一は300万円を使い込んだ、父・市郎右衛門はどうしたか?
現在のカネで300万円近くをテロ資金として使い込んでいた渋沢。逃亡にあたり、父の市郎右衛門に正直に白状したころ、「いままで遊びに使い込んだこともなかったし、今回は家の経費として処理する」と大甘すぎる裁定。
その上、「いつここに戻れるかわからない身の上だから、困ったことがあったらいつでも言ってこい(カネなら用意するぞ)」と援助まで申し出る始末。
いくらなんでも甘やかしが過ぎる。言われた息子(テロリスト)も恐縮するかと思いきや、
「カネは要らないんですけど……道中少しもないのは困るし……すぐに自立できると思うけど……とりあえず100両貸してください!」
と追加で100両(=200万円)引き出そうという豪胆ぶり。これ、偉人の話じゃなければ「盗人に追い銭」という話なのだが、そこは偉人の父、「よろしい、もってけ」とあっさり渡してしまった。親子ともども豪快というかカネに頓着しないというか……。
渋沢栄一はバレないうちにもう100両借りていたという説も……
さらにひどい説もある。1915年(大正4)から渋沢が雑誌『実業之世界』に連載した『実験論語処世談』の中で自らこう記している。
父・市郎右衛門には使い込みの件は黙ったまま、「後でバレると思うので、その時は事情説明をよろしく」と、近くに住んでいる伯父(おそらく大河ドラマで平泉成が演じた宗助)に伝言を託して、江戸へと向かったというのだ(同書「父に無断で120両」の項参照)。
テロ資金のため使い込むのもたいがいだが、父親がそれに気づく前にさらに100両を貰ってトンズラしていたとしたら……とんでもないクズ息子だ。
渋沢栄一の向かった先は「いざ吉原遊郭!」
テロ計画の後処理も目途が立ち、カネの算段もついた渋沢。落ち延びる先は攘夷志士が集まる京都。表向きは「お伊勢参りと京都見物」として、
テロの同志だった従兄弟の渋沢喜作と京の都へと向かうことに。だが、素直に中山道を西へ向かえばいいものを、なぜか二人が向かったのは江戸。
幕府の追手から逃げるはずが、捕り方がウヨウヨいる江戸にむかったのはなぜか?
一つはテロ計画以前に足繁く通っていた一橋家の用人、平岡円四郎に渡りをつけるためだった。一橋家といえば御三家(尾張・紀伊・水戸)に次ぐ名門で、その頃の当主は水戸徳川家出身の一橋(徳川)慶喜。当時から「ゆくゆくは将軍に」と期待されていた慶喜の側近中の側近が、この平岡。
そもそもは「幕府中枢に近い家に出入りしている人間が倒幕を狙っていると疑うまい」とカモフラージュのために近づいたようだが、
平岡自身とも意気投合。京都に向かうにしてもテロ未遂の農民二人では怪しまれること間違いなしなので、
平岡に「とりあえずあなたの家来ってことで身分保障してもらえないすかね?」と頼みに行くのが江戸に向かった理由だった。
渋沢栄一&喜作、明日無き暴走で悪所へGO!
生憎、当の平岡は京都に居り不在だったが、この日があるのを予想してた平岡が手配済みで身分保障の書き付けは入手。これで安心して「いざ京都へ!」と旅立つはずなのだが……。
「ところが明日にも死のうというような考えだから~」(前出『雨夜譚』より)
と苦しい言い訳をしているが、渋沢と喜作が向かったのは吉原遊郭!
死を覚悟のテロ計画から明日をも知れぬ逃亡生活と、気が張り詰めた日々で性欲が爆発するのは、ヤクザ映画に出てくるヒットマンなどでお馴染みの話。
ましてや当時23~25歳と血気も勢力も盛んな二人、しょうがない面もあるが、使い込んだ額がとんでもなかった!
「たちまちのうちに二十四、五両の金がなくなってしまった」(前同)
いや、「なくなってしまった」って他人事みたいに……。先の算式で言えば50万円近く、父・市郎右衛門から預かったカネの4分の1を早くも散財してしまったわけだ。
さすがに最高クラスの花魁を揚げてドンチャン騒ぎをできるわけはないが、吉原遊郭といえば日本有数の高級フーゾク街、中級クラスの遊女が相手でも現在のお金で5万円は下らないという。つ
まり、少なく見積もっても二人合わせて3~4回は通ったはず。何をしているんだ、資本主義の父。
渋沢栄一は贅沢気質で借金の山も、薄給をやり繰りして一気に返済!
その後も「無駄遣い体質」は改まらなかったようで、京都に着いたのちも、「遊んでばかりいてもつまらないから旅行でもしようか」と、
父・市郎右衛門が聞いたらタコ殴りされそうな理由で伊勢神宮を参拝して、ついでに奈良・大阪の名所旧跡を巡る二人。一応、
「尊王攘夷の志士が伊勢神宮をお参りするのは義務! 何なら国民の義務です!!」
と主張しているが、まぁ、観光旅行というところ。
さらに、京都で滞在していたのが「茶久」という高級旅館。
あとで「1泊3食を昼抜きの2食でいいからまけて」と交渉して1泊400文にしたというが、それでも一般的な旅籠代の倍近く。
現代のイメージでいったら、1泊2~3万円クラスのシティホテルに連泊している感じだ。
値引き交渉してでも高級旅館に泊まり続けようという坊ちゃん体質の金銭感覚。
「いや、そこは安旅籠に移れよ……」とツッコミが入って当然だが、渋沢自身も『雨夜譚』の中で「最初から下宿屋にしておけば」と反省しきりだった。
渋沢栄一はこの借金&返済生活で金銭感覚を磨いた!?
さて、そんな生活をしていれば、なけなしの100両などあっという間に消えてしまう(実際、京都に着いて2か月目で底を着いたとのこと)。
京都の友人知人にあっちで5両、こっちで3両など借金を重ね、正式に一橋家に仕官した時には、二人合わせて25両(約50万円)に借金が膨らんでいた。
しかし、ここからが渋沢の偉いところ。
一橋家に仕えた「初任給」が、四石二人扶持(だいたい14~15両とのことなので約30万円。但し年払い分)と京都滞在者への月手当が四両一分(約8万5000円)。
ざっくり計算すると月給11万円。この中から二人それぞれが月1両ずつを返済に充て(『実験論語処世談』より)、4~5カ月で完済したという。
若干、計算が合わないが、薩摩藩へのスパイ活動の手当などを貯め込みつつ、生活を切り詰め必死に返済したのだろう。
「若い頃の苦労は買ってでもしろ」とはまったく思わないが、この頃のカネの苦労がのちの渋沢の優れた金銭感覚や庶民感覚を磨いたのかもしれない。
実際、この後、渋沢は一橋家の財務面で目覚ましい実績を上げ、出世の階段をばく進していくのだが、それはまた次回のお話で……。