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若き渋沢が企んだ“日本壊滅”テロ計画「外国人は皆殺し!」
一介の農民から身を立て、幕末・明治の動乱を泳ぎ切り、日本経済の礎を築いた偉人、現在のみずほ銀行に東京電力、JR、帝国ホテルにキリンビールなどなど、ありとあらゆる分野の企業500社以上を立ち上げ、まさに現代日本の経済をグランドデザインした異能の人だ。
しかし、その一方で、倒幕派の攘夷志士のはずが徳川家(正確には一橋家)の家臣に。さらに明治維新後は敵方だったはずの明治新政府の大物官僚にと、次々と「謎の転身」を遂げ、その度に当時から毀誉褒貶(きよほうへん)の激しかった人物でもあった。
今回は全7回のシリーズとして、この偉人にして異能の人・渋沢栄一の謎多き生涯と、知られざる一面に光を当てていく。記念すべき第一回は、若き日の渋沢が計画していた恐るべきテロ計画の全貌を紹介する。
渋沢栄一が企んだ「日本壊滅テロ計画」血塗られた全貌
1840年(天保11)、武蔵国榛沢郡血洗島(ちあらいじま)村(現在の埼玉県深谷市血洗島)に生まれた渋沢栄一。
生まれたところが「血で洗う島」と初手から血生臭いが、地元・深谷市のHPなどでは「利根川の溢れた水で”地を洗われた”小高い場所(島)」あるいは〝地の荒れた島”が語源とされている。
しかし、渋沢の最初の師で妻・千代の兄、尾高淳忠の家は手計(てばか)村で、こちらの語源は「切り落とされた手を埋葬した場所」とのこと(実際、江戸期の文献には「手墓村」の表記も)。果たして、どこまで公式設定が正しいのだろうか……。
ちなみに、記事を書いている担当者がこの手計村の出身というか、祖母が尾高家の女中をしていたバリバリの地元民なので、血洗島も手計(手墓)も「こんな土地柄なら、無理もなかんべ」と納得していた。
というのも、この一帯はとにかく人の気質が荒っぽい。地元の口さがない人間は、渋沢家が家業にしていた藍玉や養蚕に次ぐ産物は「侠客(つまりヤクザ)」だと言うほどとのこと。
実際、利根川を渡った向こう岸には国定忠治、大前田栄五郎をはじめ伝説の侠客がゴロゴロ。
現代に至っても、隣の熊谷市には「愛犬家連続殺人事件」、反対隣の本庄市では「本庄連続保険金殺人事件」が発生と、何かときな臭い事件が相次ぐ土地柄なのだ。
渋沢栄一が過激派テロリストに!なぜ?
さて、こんな荒っぽい土地柄ながら、豪農の跡取り息子に生まれた渋沢栄一。
父をはじめ親戚一同、漢籍をそらんじるインテリ揃いで、榮一も7歳から先ほど登場した尾高淳忠が開いた私塾で「論語」などを学び、剣術も当時隆盛を極めた神道無念流を学ぶ。
要はお金持ちの家に生まれ、子どもの頃から文武両道の英才教育を受けた坊ちゃんだったわけだ。
しかし、そんな何不自由ない生活のはずの坊ちゃんが、なぜ、過激派のテロリストになったのか?
理由は二つ。
まず、「学んだ思想がヤバかった」。尾高の私塾では、いわゆる四書五経(当時のオーソドックスな教養)を教える一方で、当時大ブームだった「水戸学」を教えていた。
簡単に言えば「日本は帝(みかど/天皇)を中心とした神聖な国」「帝を邪険に扱った北朝方はクソ、南朝方がサイコー」 「神国日本を汚すヤツ、帝を蔑ろにするヤツは許さん!」という、いわゆる尊王攘夷思想。
で、その結論として「黒船でやってきた夷狄(いてき/外国人)は殺す!」「夷狄にヘイコラする腰抜けの幕府はぶっ倒す!」と実力行使を企む若きテロリスト・攘夷志士が日本中で誕生することに。
当然、渋沢が通った尾高の塾もそんな過激思想を持った若者のサロンと化していた。
7歳からそんなところに通っていれば、影響を受けるのは当然。自然と榮一もゴリゴリの尊王攘夷の志士となったのだ。
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渋沢栄一は江戸幕府の役人を無能な連中とこき下ろす!
もう一つの理由は「そもそも渋沢自身の思想もヤバかった」。どういうことかというと例えばこれ。
「彼らのような、いわばまず虫螻蛄(むしけら)同様の、智恵分別もないもの」
「世官世職の積弊がすでに満ち政府を腐敗させて、つまるところ、智愚賢不肖おのおのその地位を顛倒してしまった」
どちらも自伝『雨夜譚』の中で実際に榮一自身が語った言葉だが、代官や幕府の役人を「虫螻蛄同様」だの、幕府は世襲制で「愚かで不肖」な者が上に立つせいで腐っているだの、口を極めて罵っている。
幼い頃から家業の商いに触れて、いわば合理主義、実力/実績主義を身に付けていたリアリストの渋沢にとっては、武士-百姓の支配構造自体が馬鹿々々しくて仕方なかったようだ。
とはいえ、身分制度の否定など高言すれば牢屋送りか、下手すれば首が飛ぶ。溜まりに溜まった鬱屈は、より過激な方向に向かうのも無理はない。
こうして「攘夷思想」+「身分制度への叛逆」が行きついた先が、渋沢の人生を変える一大転機となった、1863年(文久3)の「高崎城乗っ取り+横浜外国人居留地襲撃」というテロ計画だった。
渋沢栄一の「狙うは徳川幕府転覆!」頼った“ある勢力”とは?,
では、実際の計画とはどんなものだったのか?
大河ドラマなどでは、「高崎城乗っ取りを計画したが、従兄弟の尾高長七郎に諫められ、涙を呑んで諦める」 といった感じであっさり描かれるが
前出の自伝『雨夜譚』を読むと、かなりとんでもない計画だったことがわかる。
具体的には、1863年(文久3)11月12日冬至の夜に同志69人と共に高崎城を襲撃。
武器弾薬を奪取して鎌倉街道を一気に南下。一挙に横浜を焼き討ちして外国人を片っ端から斬殺する──というもの。
いろいろツッコミどころ満載で、後に渋沢自身も「今から見ると、まことに笑うべき話」「ずいぶん乱暴千万な話」と苦笑いしている。
しかも装備は刀と槍(一部は竹槍!)、弓や鉄砲などの飛び道具は一つも無し。
いくら「虫螻蛄同様」の幕府の役人どもが相手とはいえ、横浜に辿り着くどころか高崎城を落とすのも難しいところ。
しかし、当時の渋沢たちは「手当たり次第に斬って斬って斬りまくる」(前出・雨夜譚より)と、大量虐殺をやる気満々。
渋沢栄一の「どうせやるなら大量虐殺!」その真の狙いとは……
しかしなぜ、渋沢たちは外国人大量虐殺にこだわったのか?
前出の自伝の中で渋沢はこう語る。
「二人や三人で斬り込んだとこるで、生麦事件みてえに賠償金払っておしまいだんべ」(意訳)
いやいや、賠償金問題になるだけで大事なのだが、ここからが渋沢たちのテロ計画の恐るべき真の狙い。横浜襲撃は単なる発火点で、「幕府の保ち得られぬような一大異変」(前掲書)、
つまり、諸外国の軍勢がテロの報復攻撃を行なって戦争状態になることを狙っていたのだ。
その混乱の中、全国各地で攘夷志士が立ち上がり、弱り切った幕府を打ち倒すというもの。
だが考えてみれば、攘夷(外国人排斥)を唱えつつ、諸外国の軍事力頼みで幕府を弱らせようというのだから、そもそもがおかしな論理。
乱暴千万どころかもう無茶苦茶。その無謀さをよく知っていたのが、江戸や京都の情勢に詳しかった渋沢の従兄弟、尾高長七郎(前出・淳忠の弟)だった。
この尾高長七郎が、決行の1カ月前になって計画の無謀さを必死で説いて、渋沢たちを思いとどまらせることに成功。
「日本資本主義の父」どころか、危うく「幕末きっての農民テロリスト」となるところが、まさに首の皮一枚で繋がった渋沢は江戸~京都と逃亡の旅に出ることになる。
渋沢栄一が実は諦めていなかった!? 幻の「横浜襲撃第二テロ計画」
さて、テロ計画の首謀者だった渋沢と従兄弟の喜作は11月のアタマに慌てて故郷・血洗島を脱出し、一路江戸へ。テロ計画は中止となったのだから、慌てず事後処理をしてから出発すればいいものを、なぜバタバタと旅立ったのか?
実は、渋沢たちの計画がストップした背後で、別のテロ計画、いわば「横浜襲撃第二テロ計画」が進んでいたのだった!
しかも、決行日は同じ11月12日、第二計画では赤城山麓で決起して沼田城を襲撃、同じく鎌倉街道を南下して一挙、横浜外国人居留地を火の海とするというもの。
しかもしかも、首謀者で農民出身の儒学者・桃井可堂は血洗島の隣、北阿賀野村の出身だった(事件当時の居住地はさらに隣の中瀬村)。
渋沢栄一は第二テログループと密談していた
ほぼ同じ目的、攻撃ルートで、後の記録を見ても、渋沢たちが「慷慨(こうがい)組」、桃井たちが「天朝(てんちょう)組」と二つ一組で呼ばれていたことからも、何らかの連動が疑われるのは当然。
実際、桃井の日記には渋沢や尾高淳忠と何度も会っていたことが記されている。
さらに渋沢や尾高たちが、自分たちの計画がもし発覚したり頓挫した時には、この第二テロ計画が実行されることを狙っていた節があるのだ。
だからこそ、決行日の12日になる前に慌てて故郷を離れ、日本中から攘夷志士の集まる京都へ向かい、第二テロ計画の後方支援を狙っていた可能性は十分ありうる。
つまり、渋沢はテロ計画を諦めていなかった恐れがあるのだ。
なお、桃井たちの計画はトラブルや裏切りが相次ぎ頓挫。桃井の自首と絶食による自死という悲劇的結末を迎えた。
しかし、この第二テロ計画や桃井について、渋沢の自伝では一切触れられていない。
むしろ、渋沢自身が口を噤まざるを得ない、なんらかの裏があったのかもしれない……。