もくじ
渋沢栄一と徳川家、600年越しの「血脈と因縁」
一介の農民から身を立て、幕末・明治の動乱を泳ぎ切り、日本経済の礎を築いた偉人、渋沢栄一。現在のみずほ銀行に東京電力、JR、帝国ホテルにキリンビールなどなど、ありとあらゆる分野の企業500社以上を立ち上げ、まさに現代の日本経済をグランドデザインした異能の人だ。
しかし、その一方で、倒幕派の攘夷志士のはずが徳川家の家臣に、さらに明治維新後は敵方だったはずの明治新政府の大物官僚にと、次々と「謎の転身」を遂げ、当時から毀誉褒貶(きよほうへん)の激しかった人物でもあった。
今回は全7回のシリーズとして、この偉人にして異能の人・渋沢栄一の謎多き生涯と、知られざる一面に光を当てていく。
シリーズ最終回となるこの第7回では、倒幕の志士だった渋沢が徳川慶喜に仕え、さらに維新後も忠誠を捧げ続けた謎について迫る──そこには、中世から幕末にまでつながる「秘められた歴史」があったのだ!
渋沢栄一が「敗軍の将」慶喜に終生、忠誠を誓った謎
渋沢の人生でもっとも不可解なことの一つが、徳川慶喜が死ぬまで忠誠を捧げたことだ。
シリーズ第一回で触れたように、そもそもが倒幕を狙うテロリストだった渋沢。幕府や役人についてもボロッかすにこき下ろしていた。
追ってから身を隠すため、たまたま知遇のあった一橋家に仕官したまで。
実際、当初はそのまま長州へ逃げようかと、同行していた従兄弟の渋沢喜作に相談していたと自伝に記している。
そんな渋沢が、1913年(大正3)に徳川慶喜が亡くなるまで(なんと、慶喜の葬儀委員長まで務めている)、なぜ尽くし続けたのか? しかも、1893年(明治26)から約四半世紀もかけて、
「慶喜公は幕府を滅ぼした愚か者ではない!」
「慶喜公の真意や見識の高さを知ってくれ!!」
と、慶喜の汚名返上のため私財を投げうち『徳川慶喜公伝』という大部の伝記を編纂しているのだ。すでに謹慎は解かれていたとはいえ、いわば「敗軍の将」の慶喜。言ってしまえば大坂夏の陣のあとで、「豊臣秀吉サイコー!」とべた褒めする伝記を発表するようなもの。
編纂を企画した当時、渋沢は53歳。政府と密接な関係を保ちつつ実業界をけん引していた頃だ。なぜ、こんなリスクを冒す必要があったのか不思議なところ。
だが、渋沢家の歴史を遡っていくと、それだけの忠誠を捧げるのも納得の「ある因縁」が浮かび上がってくるのだ──。
渋沢栄一の故郷の目と鼻の先に徳川家所縁の地があった!
渋沢栄一の故郷・血洗島から5キロほど。利根川を挟んだ対岸に「世良田(せらだ)東照宮」という神社がある。名前でピンときた方もいるだろう。
実はこの一帯、世良田という地は徳川家発祥の地だという。
「いやいや、馬鹿言っちゃいけない。徳川は三河発祥でしょ。群馬なんて……」という方も少なくないだろうが、実は、徳川幕府公認の「父祖の地」なのだ。
もともとは鎌倉時代初期からあった長楽寺という古刹の敷地内に、三代将軍家光の命で南光坊天海が日光東照宮から神殿を移築。
すぐ近くの満徳寺は鎌倉・東慶寺以外で唯一の「駆け込み寺」と定め、歴代将軍の位牌を安置。
「世良田=徳川家発祥の地」と大々的にアピールしたわけだ。
江戸時代には「お江戸みたけりゃ世良田にござれ」と俗謡が生まれたほど栄えたという。
源氏の名門「新田氏」の末裔を主張した徳川家
その徳川家公認の歴史によれば、そもそもこの周辺・新田庄を拠点とした源氏の名門・新田義重の四男、義季(よしすえ)が世良田の地を与えられ、世良田義季と名乗り先に挙げた長楽寺を開く。さらに隣の得川(とくがわ)郷も与えられ得川義季とも名乗る(この辺ややこしいw)。
さらにここからややこしいが、世良田氏の末裔・親氏が南北朝の戦乱で故郷を追われ三河に流れ着く。で、その地の有力者、松平氏に婿入りして松平親氏となり、この親氏の9代のちの子孫が松平元康つまり徳川家康だと(徳川家は)言っている。
つまり、源氏─新田氏─世良田氏/得川氏─松平氏─徳川氏という流れで、要は「オレの先祖、源氏だから征夷大将軍になる資格アリ!」と主張しているわけだ。
渋沢栄一と徳川家をつなぐキーワード「新田の血脈」
と、ここまでなら「要は出身地のご近所に徳川家発祥の地があったってだけだろ?」と思われるだろう。
しかし、本筋はここから。渋沢栄一の一族と徳川家とは、単なる「先祖がご近所さん」では済まない因縁浅からぬ関係だったことが数々の資料が示しているのだ。
まずカギとなるのは、渋沢家の菩提寺である華蔵寺だ。
血洗島の隣、横瀬村にある古刹で、郷土史『深谷市史・追補編』によれば、先に出てきた世良田(新田)義季の兄で、新田宗家の二代目である新田義兼(よしかね)に開かれたという。
さらに、この横瀬村一帯は「横瀬六騎」という新田一族あるいは新田氏に従った地侍(武士団)の拠点だった。つまり新田氏の勢力範囲だったわけだ。
渋沢家の血脈は新田か足利か、いや武田かも? 謎めいた血縁
となれば渋沢一族も新田氏所縁の……と思うところ。実際、渋沢の孫で作家の渋沢華子氏は著書の中で「渋沢一族は新田の一党から出たのではないかという説もあるが」と記している。
その一方で、渋沢の伝記資料などでは「血洗島に土着した先祖、渋沢隼人は足利氏の出自」という伝説が一族の中で語り継がれていたと記されている。
伝承のどこかのタイミングで、新田氏と足利氏がごっちゃになったのか? とも考えられるが、残念なことに、平将門研究で知られる織田完之から「そもそも足利氏末裔説は間違い。
渋沢氏は甲斐源氏の末裔」と全否定されている(とはいえ、甲斐源氏→渋沢氏説も決定的な証拠はまだ見つかっていないとのこと)。
渋沢栄一が目論んだ「新田氏再興計画」があった!?
ただ少なくとも、渋沢家では代々、自分たちは新田(あるいは足利)ゆかりの一族という意識があったのは確か。
それゆえ渋沢が、同じ新田の血脈に繋がる徳川家にシンパシーを抱いていたとしてもおかしくはない。
また、新田の血脈にこだわっていたのは渋沢一族だけではない。
第一回で触れた「第二テロ計画」の盟主になるはずだった人物も、実は新田宗家の流れを汲む岩松俊純だった。
つまり、新田氏が興った鎌倉時代初期から600年を経た幕末においても、この地域で「新田の血脈」は崇めるべき存在だったといえる。
ここまで見てくると、あれだけ徳川”幕府”はこき下ろしていたのに、徳川”宗家”を継いだ慶喜に終生、忠誠を捧げた理由の一つが「新田の血脈」へのこだわりにあったのではと考えたくなる。
渋沢栄一だけではない。従兄弟の喜作は彰義隊から函館まで戊辰戦争を戦い抜いて牢に繋がれ、養子だった平九郎は飯能戦争で討ち死にと、渋沢一族が文字通り命がけで徳川家に忠誠を尽くした謎もこの辺にあるのではないだろうか?
渋沢栄一は利根川を挟んだ「新田の故地」へ遷都を狙ったのでは?
維新後、なし崩し的に都が京から江戸(東京)へと移ったのだが、当時は「京都へ戻ろう」「いや大阪で」など遷都論議がたびたび浮かび上がった。
その中で、渋沢が関わったとみられる遷都案が二つある。
まず一つは1978年(明治11)に、佐野常民(日本赤十字社の創始者)が建議した「本庄遷都案」。
渋沢の故郷血洗島の西方、現在の埼玉県本庄市へ首都を移すというものだ。研究者によれば、建議作成に対して渋沢からの助言があったとされている。
もう一つはその8年後、1986年(明治19)に渋沢の盟友、井上馨と三島通庸の連名で建議された「上州遷都案」だ。
こちらは「群馬県赤城山麓新田・佐位(さい)・那波(なわ)および埼玉の幡羅(はたら)・榛沢(はんざわ)・児玉」と、現在の群馬県伊勢崎市・太田市・埼玉県深谷市を覆う広大なエリア。この上州案に至っては、あからさまに「新田の故地」へと都を移そうという強い意志が感じられる。
ちなみに、建議した井上の妻も実は新田氏の流れを汲む、というか前出の岩松(新田)俊純の娘だ。
ここまでくると、第三回から第五回で紹介したフリーメイソンではないが、渋沢は「新田の血脈」に操られて動いていたのでは? と勘繰りたくなる。
あるいは新田氏を盟主とする「謎の秘密結社」があり、そのメンバーが渋沢栄一であり徳川慶喜だった……と妄想は止まらない。まさに歴史の裏に隠された都市伝説と言えるかもしれない。