トーマス・ブレーク・グラバーが産んだ大日本帝国とその壮絶な終焉

トーマス・ブレーク・グラバーが産んだ大日本帝国

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大日本帝国とその壮絶な終焉

グラバーについての総集編です。

「鎖国政策が解かれた日本は、二世紀有余に亘る長居眠りから覚め、さわやかな世直しの風邪が国中を吹き抜けていた。」

今回は、ありふれた歴史解説などではない。彼を照明することで、「明治政府=大日本帝国」の真の姿を、阿修羅スピリットをもって描き出してみようという試みです。

私は、明治政府の本質から出生日と死亡日を割り出しました。

明治政府の出生日
1859年(安政6年)9月19日
グラバーが長崎にやってきた日

明治政府の死亡日
1945年8月9日
長崎の大浦天主堂上空に原子爆弾が投下された日

(グラバーが長崎にやってくるまで-アバディーン・コネンクション)
グラバーは1938年にスコットランドの港町アバディーン近くの漁村で生まれました。
父は英国海軍大尉(イングランド人)。 母は漁村出身の生粋のスコットランド人です。

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アバディーンは造船の町。
造船所では、茶、阿片、織物の輸送に活躍した快速帆船を建造していました。

グラバーは、アバディーンの羊毛製品製造会社の代理人として中国にわたり、継いで1959年9月19日、21歳で長崎にやってきます。

1862年の記録では、長崎にジョージ・グラバー(大英帝国海事税関長)とT・G・グラバー(ジャーディン・マセソン商会勤務)が長崎に滞在しています。親戚でしょう。
(グラバーの兄弟二人も少し後から日本で商売を手伝っています。)

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おそらくはこのいずれかが、長崎の大物スコットランド商人-ケネス・ローホマッケンジーと接触し、トーマスを推薦したと見てよいそうです。

マッケンジーは、ジャーディン・マセソン商会の代理人としてインド、中国で長年努めたスコットランド商人であり、長崎市大浦の外国人居留地で最大の大物でした。

1861年5月、マッケンジーは長崎を去り、グラバーがジャーディ・マセソン商会の代理人の地位を引き継ぎました。同時にに大手貿易商社「デント商会」の代理人の地位も引き継ぎました。

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1967年、マッケンジーは日本に戻り、再びグラバーの今度は片腕として働きます。

1873年、マッケンジーは不治の病を患ったとき、大阪から長崎にわざわざ無理を押して旅行し、グラバー邸で最後の数日をすごし、死亡します。

この大物商人マッケンジーが21歳の若者にすべての業務を譲り、さっさと引き上げて言ったのはなぜか。

1867年にグラバーを助けにきたのはなぜか?そして死期を悟ったときにグラバーを訪問したのはなぜか?

ジャーディン・マセソン商会本社からの指令-その指令はどこから出たのか?(倒幕は南北戦争と並行して準備されていた)

倒幕は米国の南北戦争と並行して準備されていたと考えます。

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「死の商人」よりも奥深い何者か-それが「エージェント」

グラバーの使命は倒幕と軍需物資供給。その本格的発動時期は、奥の院が、南北戦争の帰趨をにらみながら決定する。

(明治政府の誕生
1859年は、安政仮条約による開港の年です。グラバーが長崎にやってきたのがこの年でした。薩摩、長州、土佐の藩士が続々グラバー邸を訪れ、さっそく取引が始まりました。

グラバー邸には隠し部屋があり、そこに西南雄藩の志士たちを匿っていたそうです。

1863年には、長州の若者5人が横浜から英国に密出国しますが、これはグラバーの助けによるものです。この中に伊藤博文がいました。

1865年には、五代友厚をはじめとする15名の薩摩藩士が密出国します。また、上海へ向かって白石をはじめとする長州藩士がたびたび出国しています。

すべてグラバー-ジャーディン-マセソンの手によるものです。

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(武器商人としての不自然な暗躍)

グラバーは武器商人として活躍しました。これは当たり前。問題はそのことではなく、その活躍ぶりが「不自然」であったことです。

1859年以降、各藩から武器の買いつけ依頼がグラバーの下に殺到したのは当然。しかし、この取引は条約違反。

その上、各藩が支払い約束を反故にした場合、代金取り立て、請求手段が皆無なのです。

彼の武器商人としての暗躍は、南北戦争の終結時期とほぼ重なっています。

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南北戦争が1965年に終り、武器価格が下がった-次に日本を片づけるという計画なわけですね。

1862年に生麦事件
1863年に薩英戦争
1864年に長州による関門海峡封鎖事件

西南諸藩が引き起こしたこれらの事件は、今から眺めると、おそらく藩内反対派の粛清と意志統一が本当の目的だったのではないかと思われます。

いずれにせよ、1864年には西南諸藩が倒幕に傾き、武器調達のために必死となった。

この頃南北戦争の帰趨が見えはじめた。いよいよ日本処分の準備が整ったわけです。

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資料編 パート2 死の商人、ご存知 西のグラバーとご存知ない東のスネルに薩長同盟の簡潔な説明があります。

1865年6月、京都において、坂本龍馬は、長州藩が幕府の再征に備える武器購入を希望していることを西郷隆盛らに伝え、薩摩藩名義で長州藩のための外国製武器購入が承諾されたそうです。

薩摩藩名義で英国商人グラバーから銃約7000丁を購入し、長州へ融通することが決まったと。

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坂本龍馬はどこから長州藩の武器購入の情報を得、確認したのか。私は岩崎弥太郎ではないかと考えます。

怪しいのはむしろ岩崎弥太郎ではないでしょうか

薩摩-長州同盟-このアイディアはもともとグラバーの持論でした。1866年7月、薩摩藩と親密共犯関係となったグラバーは、英国公使ハリー・パークスを薩摩城内に招き、歓待します。

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グラバーの言葉

「このグラバーが日本のため一番役に立ったと思うことは、私がハリー・パークスと薩摩・長州の間にあった壁をブチ壊してやったということです」

これが真の薩摩-長州同盟。仲介者はグラバーであり、薩摩-長州同盟による倒幕を英国が既定方針として「承認」された瞬間。

少し戻ります。1865年における薩長同盟成立、南北戦争終結を受け、グラバー商会は船、大砲、小銃、火薬、弾薬、機械類など、あらゆる軍需物資を精力的に買いつけ、また各藩にカケ売りします。

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1866年にはグラバー商会の日本人労働者は数百人にのぼりました。またロイズ保険会社、香港上海銀行、オリエンタル銀行の代理店も営んでいます。

グラバーのカケ売りはすさまじく積極的なものでした。長崎の他の承認は日和見的な販売を行っています(これは当然)。

武器購入代金を米で支払うことを受け入れ、米を中国に送って換金。多額の掛け売りを行い、手形を受け入れ、軍需物資を売りまくりました。

これができた大きな要因が、竜馬の仲介した薩長連合です。薩摩藩の名義とすることで、武器代金の回収の確実を図ることができたので、思い切って多量の軍需物資を上海から買いつけることができた。

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そして、ハリー・パークスと薩摩-長州との密談の結果、倒幕戦争が決定された。多量の軍需物資をカケで買っていた薩摩藩には、破産か倒幕かの道しか残されていなかった。

1867年、竜馬がおそらく公武合体に動いたとき、当然、それを暗殺する動機が薩摩-長州藩にあった。

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グラバーの言葉

「単純に金もうけだけじゃ決してなかった。徳川幕府の反逆人の中では、自分が最も大きな反逆人だったと私は思っている」「トーマス・グラバーと毛利家家臣の対談」より

グラバーの軍需物資取引方法は?大名から注文を受け、注文を上海のジャーディン・マセソン商会につなぐ。

ジャーディン・マセソン商会へ代金として手形を振り出し、武器を受領し、大名に引き渡す。
大名へは掛け売り。

ジャーディン・マセソン商会は、欧州の商社から、欧州で生産された軍需物資機械類を買いつけていたということ。

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1868年、グラバーの手元には、一日にして紙屑同然となった約束手形、そして山と積まれ無用の銃、弾薬、黒色火薬、毛布が残ったと伝えられています。

戊辰戦争の規模では、彼が買いつけた多量の軍需物資がはけなかったのです。もっと長期の内戦を見込んでいたのに。南北戦争は4年も続いたのです。

(1867年にマッケンジーが来日したのは、このあたりの様子見でした)。

1869年、ジャーディン・マセソン商会へのグラバーの債務は膨れ上がり、
1870年にグラバーは破産を申請しました。

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負債総額は50万ドル

破産整理には7年かかったと伝えられています。彼が予定していた内戦の規模が分かりますね。

これを阻止したのは、竜馬の遺志を継いだ西郷-勝。そして徳川慶喜。

英国は決して西郷隆盛を許すことはなく、これを政治的に暗殺します。

そのあと西南戦争。(こんな名前をつけたのは誰なのか?)このへんの詳細は省略します。

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(グラバーと岩崎弥太郎)

その後、グラバーは三菱の傘下で「余生」を過ごすこととなります。岩崎弥太郎は、1859年に長崎でグラバーと出会い、このときに倒幕を予感したはずです。

これ以降グラバーと深い接触があり、スパイとして働いていたのではないかと思います。

岩崎は1867年土佐商会を設立し、グラバー商会と取引を始めます。この時期の土佐藩の軍需物資買いつけを行ったはずです。これが三菱の資本原始蓄積となったのでしょう。

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(造幣局の機械はグラバーが買ったもの)

英国から帰った五代友厚は、グラバーに淡路屋ツル(夫人となる)を紹介します。1868年、五代が、政府造幣局での通過鋳造のために、グラバーに援助を求めます。

グラバーは、オリエンタル銀行を通して造幣機械を調達し、これを使って1871年に銀貨鋳造が開始されます。

(キリンビール表紙のモデルはトーマス・グラバー)グラバーは三菱傘下でビール会社経営にあたりました。

これがいまのキリンビール。キリンビール表面のキリンの顔を見て下さい。キリンの顔のまわりを一周して、たてがみの中に消えていく黄色の口髭が見えます。

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これはトーマス・グラバーのひげです。「麒麟麦酒株式会社50年史」

よく見るとキリンの目も欧米人風です。

(大日本帝国の支配人はグラバー)明治時代の元勲のほとんどはグラバー関係者です。

そのほとんどは1859~67年のわずかな期間に、革命の前線基地であるグラバー邸を訪れた藩士たち。

このサークルに入らないものや、西郷隆盛のように「裏切った」者は、みんな消されていきました。

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明治最大の元勲、そして路線敷設者エージェントはグラバー。大日本帝国はこの後、大陸へと進出し、経済圏の構築を指向し、戦争の時代に入る。

(明治体制終焉の黙示-グラバー邸上空への原爆投下)グラバーには息子さんがおりました。
倉場富三郎という人。

親の希望に逆らい、親の職業-日本操縦エージェントを嫌い、どちらかと言うと趣味に生きた人。

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1859年、大浦川河口には洋館はありませんでした。1867年には、大浦側の埋め立てが終り、天主堂、多数の洋館が埋め立て地とその周辺に建設され、グラバー邸が斜面に建設されます。

ここは外国商人たちが多数居住していました。当時の写真を見ると、天主堂はグラバー邸と近いことに驚いてしまいます。

締めくくりにいいましょう。

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ヒロシマへの原爆投下は実験目的。これはよく知られています(「原爆機反転す」小学館文庫)。

ではなぜ最後はナガサキなのか?原爆の目標は天主堂ではない。本当はグラバー邸だった。

1859年に始まった英国支配エージェント支配下の明治政府が、そのエージェントの住まい後に米国が投下した原爆によって終わる。

その終焉の黙示。西洋人陰謀家の考えそうなことです。

しかし英国であろうと、米国であろうと、その奥の院は変わらないのではないかと思われます。こういうことを考えつくのは?

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