もくじ
日本民族の心の故郷 1億2千万の私たちはどこからきたのか?
外国に行ったり、また住んだりして日本が恋しくなる、また自分のふるさとが恋しくなる、そんな体験をしたことがおありでしょうか。
年をとればとるほど、その思いはつのるものでしょう。日本は世界でも、最も年をとっている国の1つです。
そして、私たちの多くは、「私は、いったいどこからきたのだろう。」と心の中で尋ねています。
柳田国男は、椰子の実が伊良湖岬に漂着したことから、祖先は何方から来たという壮大な仮設を唱えました。
また、藤村は西の遥かな彼方を思い巡らして作詞しました。
「名も知らぬ遠き島より 流れ寄る椰子の実1つ故郷の岸を離れて 汝はそも波の幾月・・・」
その柳田国男に師事した折口信夫は、大正9年、『妣(はは)が国へ、常世へ』という論文を発表して次のように言いました。
「10年前、熊野に旅して、光り充つ真昼の海に突き出た大王ヶ先の突端に立ったとき、遥かな波路の果てに、わが魂のふるさとのあるような気がしてならなかった。」
古事記に、『妣の国』ということばが多く出てきます。
かのスサノオノミコトの条に見受けられ、日本書紀には、多く『根の国』ということばになっています。
今のことばでいうと、『母国』ということになるでしょう。
遠い私たちの先祖(みやお)たちは、この妣の国すなわち私たちの本国で生まれ、成長し、そこで死んだのですから、子孫の私たちが懐かしんで当たり前でしょう。
鳥居竜蔵はこう言いました。「われらの遠いみやおたちは、大陸から来たもので、この本土は移住地で、本国は向こうにあるわけであります。」(妣の国・論集日本文化の起源)
日本人の心の中にひそむ源郷意識が、カミ(親、先祖)がやってきたもとの場所を探し求めさせるのでしょう。
文献時代の初期のもののなかに、ひとぐに、ひとの国と書かれてあるのは、ひと(人)・ひと(他人、他国)という意味にとれるのですが、他国といっても未知の国ではなく、身近さを感じさせる国です。
空想の国としての異国、異郷を意味するものではありません。
なぜなら邪馬台国の本とか、日本人のルーツに関する本を出版すると、まず5千部は売れるとある出版社の編集長は私に話してくれました。
シルクロードや黒潮は日本人に地理的のみならず心情的にも親密さを覚えさせるものがあります。
日本民族の心の故郷:もう1つ、スサノオノミコトの話をさせてください
イザナギノミコトが三柱のカミ(アマテラス、ツクヨミノミコト、スサノオノミコト)にそれぞれの国の統治を命じました。
しかし、スサノオが泣いてばかりいて自分の領地を治めず、そのため悪い神様の仕業が蠅のように起こり、ありとあらゆる悪霊が働き、災いがおこりました。
イザナギノミコトは、「どういうわけで、お前は支配せよといった海原を統治せず、泣いてばかりおるのか。」と問いました。
スサノオは、「私のお母さんのいらっしゃるあの根の国の堅州国(堅固な根の国に行きたくて泣いているのです。」と釈明するのですが、イザナギノミコトは怒り、スサノオを追放したという記事が古事記にあります。
スサノオがいった堅固な国というのは、歴史の古い、確固たる文化と宗教の花咲いた立派な国であることが伺い知れます。
さて、日本建国のとき、すでにそのような歴史を築いていた国はどこにあったのでしょうか。
世界最古の書物『聖書』との関係を述べさせてください
聖書は、日本の多くの人々が思っているような道徳書、宗教書ではありません。ある国の歴史書のようなものなのです。
神様がおられることと、神様を敬い従うときにどういうことがおこるかを著した書なのです。
そこで、明治時代に輩出したキリスト教の大先輩内村鑑三のことばを引用します。
「日本人の内にユダヤ人の血が流れているとは早くより学者の唱えたところである。かつてある有名な西洋人の人類学者が京都を歩きながら、
行き交う市民の内に、まぎろうべきなき多くのユダヤ人のあるを見て、指さしてこれを案内の日本人に示したとのことである。
その他、日本人の習慣の内に、ユダヤ人のそれに似たるもの多く、また、神道とユダヤ教との間に、多くの類似点ありという。
今回、米国の日本人排斥に対して、かの国の1派のキリスト信者が『日本人イスラエル説』を唱えて、大いに日本人のために弁じたことを余輩は知る。
日本人の敬神にユダヤ的の熱意あるは人のよく知るところである。
キリスト教の宣教歴史において、日本人のごとくに真実にこの教えを受けた者は他に無いと信じる。
宣教開始以来60年後の今日、キリスト教はすでに日本人の宗教となった。
キリスト教は他国において見ざる発展を遂げるであろう。
西洋人の宣教師が日本人を教化するあたわざるは日本人に宗教心が不足するからではない。
それが西洋人以上にはるかに多いからである。」(聖書の研究誌1924年11月号)
聖書はまた預言の書で、預言も含みます
偶像の木や石の神を拝んで追放された古代イスラエル民族の一部が(申命記28.36)、終末の世には、地の果てから蘇って自分の足で立ち(イザヤ41.9)、神様の民となるといっています。
彼らは谷間で干からびた骨になっているが、イスラエル全家として墓が開かれるように蘇ります。(エゼキエル37)
これは、国や民族へのメッセージです。
しかし、それが完成するためには、その国を構成する一人一人が神様の計画を知らねばなりません。
神様は私たちを愛され、ご自分の計画を教え、また実行する能力を与えるために、ひとり子なるイエス・キリストをこの世に遣わされました。
そして私たちの魂のふるさとを知る方法は、イエス・キリストの十字架上でのとりなしと、墓の中から3日目に甦えられた復活にあります。
どうか聖書の中にあなたの希望と、日本の希望を見つけ出してください。