日本人のルーツ弥生時代の始まりとなる前8世紀に大陸から渡来した民とは

日本人のルーツ大陸から渡来した民とは

弥生時代の定説を覆す年代測定


弥生時代前期の始まりを、これまでの定説より500年ほど早い紀元前800年前後まで遡ると発表しました。

九州北部の遺跡から出土した各種弥生式土器に付着している遺物の年代測定を行った結果、弥生早期の土器11個のほぼ全部が、紀元前800年ごろに集中することがわかったのです。

炭素の放射性同位体C14を活用した年代測定により、年代の推測も信憑性がかなり高くなったことから、これまでの歴史観が教科書も含めて、根底から覆される結果となりました。

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大陸より日本を訪れた渡来人が大陸の文化を日本列島に持ち込みはじめた弥生時代の始まりは、紀元前4世紀頃という従来説が改められ、

実は前8世紀頃であったという結論に達したことは重要な意味をもっています。

これで大分県国東半島における前700年ごろのものと推定される製鉄遺構や、福岡の曲り田遺跡で発掘された前8世紀の弥生早期の鉄器など、

一見弥生文化に属する遺構の有様を、無理やり縄文文化に結びつけて説明する必要がなくなりました。

また、さまざまなDNA鑑定による遺物の検証をとおして、弥生時代の民は南西諸島、つまり日本列島の最南端から北上してきたことも、推察できるようになりました。

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しかしここで新たなる疑問が生じてきます。前8世紀という古代、何故、大勢の人々がわざわざ大陸より海を越えるという危険を冒してまで、

見知らぬ日本の島々に渡ってこなければならなかったかということです。

その当時、大陸では春秋戦国時代とも違い、中国の政情も落ち着いていたことからしても、大規模な中国からの民族移動のような人の動きが考えにくいのです。

そのため、弥生時代の渡来者に関しては寒冷気候などの特殊な外部要因を想定した仮説などが飛び交うようになりましたが、想像の域を抜け切れません。

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遊牧民の変貌から「弥生時代」の謎に迫る

 壺形土器 弥生時代(後期)

弥生時代の始まりを前8世紀と特定した「弥生ショック」にまつわる日本列島への移民の正体を解き明かす鍵の一つが、アジア大陸における遊牧民族の変貌です。

紀元前8世紀ごろまで、アジア大陸の遊牧民は主に大陸の西南部から内陸アジアの乾燥地帯にかけて暮らしていました。

原始農耕文化を背景に、家畜の放牧や水に恵まれたオアシス地帯での農耕に従事していたと考えられ、武具などを持つ必要もさほどなく、生活は厳しくとも平穏な時代を過ごしていたようです。

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この温厚な遊牧民族が、ある一時を境に突如として騎馬民族と化し、広大なアジア大陸を東方へと移動しはじめるのです。その先陣を切ったのが前7~8世紀にイラン高原に進出したスキタイです。

そして後に匈奴(きょうど)や突蕨(とっけつ)などの騎馬民族の歴史へと変貌を遂げます。何故、原始遊牧民族が騎馬民族にとって代わり、

しかも未知の大陸を横断するという大きなリスクを犯してまで、東漸を決行し続けたかということについては謎に包まれたままです。

これらの遊牧民族が東へ向かって大陸を移動しはじめた直後の時代、大陸の東方にある島々、日本列島では弥生時代が始まったのです。

遊牧民族の東漸と弥生時代の始まりのオーバーラップは偶然とは思えず、弥生ショックの根底に潜む民の流入に関わる謎を解く鍵の一つとなります。

前7~8世紀に崩壊したイスラエル国家の行く末

北イスラエル王国と南ユダ王国

北イスラエル王国と南ユダ王国同時期、アジア大陸ではその最西端に位置するイスラエル国家にて、一大事が起きていました。旧約聖書の歴史書から古代イスラエル史を探ると、ちょうど前8世紀、イスラエルは北イスラエル王国と南ユダ王国の2つの国に分裂していたことがわかります。

そして前722年にイスラエル10部族で構成されていた北イスラエル王国がアッシリアに攻撃されて崩壊したのです。

それら10部族は歴史から姿を消し、「失われたイスラエルの10部族」とも呼ばれています。離散した民は、アジア大陸の東方へと姿を消してしまったのです。

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その後、南ユダ王国では政治的緊迫感が漂う前740年頃、王族に仕えていた預言者イザヤは、神から召命を受けて宣教活動を始めます。イザヤのメッセージは単純明快でした。

それはイスラエルの背信行為を原因とする国家の滅亡が差し迫っているという、裁きの宣告です。その預言どおり、前586年、今度は南ユダ王国が滅び、バビロンの占領下に入ったのです。

その結果、多くの民はバビロンに捕囚の民として連れていかれることとなります。また、中にはアジア大陸の各地に離散した民も少なくありませんでした。

南北のイスラエル国家の民が、国家を失った結果、数百万人とも考えられる大勢の民が、アジア大陸の各地へと離散したのです。

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皇族の歴史と重なる離散したイスラエル人の存在

北イスラエル王国が崩壊してから数十年後、南ユダ王国も滅びつつあった前7世紀、日本では皇族の歴史が始まりました。

それは大勢の南ユダ王国の民や預言者イザヤらが首都エルサレムにある神殿に保管されていた契約の箱とともに歴史から姿を消した時期と重なっています。

国家を失った民の中には、アジア大陸に離散した民が多く存在し、中には日本列島まで辿り着いた人々もいたのではないでしょうか。

その前提で歴史を振り返ると、弥生ショックが意味する前8世紀において、離散したイスラエルの民が日本列島に渡来し、弥生時代の始まりのきっかけを作ったとういう歴史の流れが、わかりやすく見えてくるようです。

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人類の歴史の謎とも言われているイスラエルの失われた10部族、そして南ユダ王国の民と契約の箱の行方は、騎馬民族の東漸とともに、弥生ショックの時代が示唆する前7-8世紀ごろの倭国創設に関連している可能性が見えてきました。

時代の一致だけでなく、その後の古代日本文化の背景に潜む宗教観やしきたりを振り返ると、案の定、そこにはイスラエル文化に酷似した風習が数多く存在していることからしても、日本人のルーツにイスラエルが絡んでいた可能性を見出すことができます。

弥生ショックが意味する前8世紀、弥生時代の始まりと、アジアからの渡来者の流入に注目することにより、日本人のルーツに迫ることができます。

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