もくじ
渋沢=フリーメイソン傀儡説の謎を追う(前編)
一介の農民から身を立て、幕末・明治の動乱を泳ぎ切り、日本経済の礎を築いた偉人、渋沢栄一。現在のみずほ銀行に東京電力、JR、帝国ホテルにキリンビールなどなど、ありとあらゆる分野の企業500社以上を立ち上げ、まさに現代日本の経済をグランドデザインした異能の人だ。
しかし、その一方で、倒幕派の攘夷志士のはずが徳川家の家臣に。さらに明治維新後は敵方だったはずの明治新政府の大物官僚にと、次々と「謎の転身」を遂げ、その度に当時から毀誉褒貶(きよほうへん)の激しかった人物でもあった。
今回は全7回のシリーズとして、この偉人にして異能の人・渋沢栄一の謎多き生涯と、知られざる一面に光を当てていく。第3回は渋沢栄一の生涯で最大のミステリー、あの秘密結社・フリーメイソンとの因縁を前中後編で紐解く。
渋沢栄一にも維新の陰で蠢いた秘密結社の手が伸びていた!?
攘夷倒幕のテロリストから一転、徳川家御三卿・一橋家の家臣となった渋沢栄一。
主君の徳川慶喜は幕府で重責を担い、次期将軍の声望も高かった人物だ。
言ってしまえば、中核派の活動家が自民党総裁候補の私設秘書にでも鞍替えしたようなもの。
これだけでもとんでもない話なのだが、徳川幕府内部からの改革を志したのか、渋沢はみるみるうちに出世の階段を駆け上る。
恩人で一橋家内での後ろ盾でもあった平岡円四郎が暗殺される悲劇もあったが、一橋家の財務体質を改革するなど実績を重ね、遂に徳川慶喜の側近となった。
そして、(渋沢は「最悪のタイミング!」と大反対だったようだが)慶喜が十五代将軍の座に就き、さらに幕府中枢で腕をふるうところだったのだが、ここで再び、渋沢の人生を変える一大転機が訪れる。
渋沢栄一とフリーメイソンを結び付けた人物は2人いた!
1867年、フランス・パリ万国博覧会が開催されることになり、幕府もこれに参加を決定。それに合わせて、将軍・徳川慶喜の名代として、実弟の昭武がフランス皇帝・ナポレオン三世に謁見し、そのまま欧州遊学することとなった。渋沢はその随行員として大抜擢され、フランスに渡ることになったのだ。
そして、この欧州派遣こそが、「渋沢はフリーメイソン、特にその中で絶大な力を握っていたロスチャイルド家に操られていた!」という源なのだ。
この当時のロスチャイルド家については第4回の中編で詳細に触れるが、このまことしやかな伝説によれば、欧州派遣の際に”ある人物”を通じてロスチャイルド家と繋がりができ、
帰国後は彼らのプランに従って、日本経済をグランドデザインし、その一環として日本銀行も設立したという。
そこでこの第3回では、この”ある人物”について話を進めるが、渋沢とフリーメイソンを結び付けたと疑われる人物は、実は2人いる。一人は読者の皆さんもよく知る、ある歴史上の人物とかかわりの深い人物だ。
渋沢栄一が欧州派遣の船上で出会った謎の人物とは……
1867年2月、欧州派遣団は横浜から船で旅立ったのだが、その船上で渋沢は一人の人物と出会う。派遣団の通訳として同行したその人物が、アレクサンダー・フォン・シーボルト。苗字でピンと来た読者も多いだろう。
ドイツ系オランダ人医師で博物学者でもある、フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの長男だ。
このシーボルト(父)、日本史の教科書では「詳細な日本地図を持ち出そうとして、スパイ疑惑で国外追放された」という、いわゆる「シーボルト事件」で名前が挙がる。
しかし、教科書には絶対書かれないが、彼は実はフリーメイソンのメンバーだったことが判明している。
また、一説には同じくフリーメイソンのメンバーだったペリー提督に日本の情報を流したのもシーボルト(父)で、もともとそのためのスパイ行為だったとの説もあるのだ。
シーボルトは親子二代にわたる筋金入りのフリーメイソン!?
では、息子であるアレクサンダー・フォン・シーボルトはどんな人物だったのか?
こちらもなかなかの怪人物。欧州派遣団の通訳を務めながら、薩摩や長州寄りだったイギリスに情報を流していた疑いがある。
実際、維新後は長州藩出身の大物、井上馨の私設秘書として条約改正交渉をサポートし、後に明治政府から勲章を受けている。
フリーメイソン擁護派のオーストリア皇帝から勲章授与の履歴も…
しかも、その一方で不平等条約の極めつけと言われる日本ーオーストリア間の通商条約成立にも暗躍し、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世から男爵位も貰っている。要は二重スパイの疑いが濃いのだ。
もっとも、アレクサンダーもフリーメイソンのメンバーだったという明確な証拠はまだ見つかっていない。
しかし、爵位を与えたフランツ・ヨーゼフ1世はフリーメイソン迎合路線へ転換した人物。井上馨をはじめ薩摩や長州の背後にフリーメイソンの暗躍があったのもよく知られている。
彼らと深く関わっていた人物が、父親同様、筋金入りのフリーメイソンであった疑いは濃厚だ。
渋沢栄一ろをシーボルトが英国・フリーメイソンの拠点を案内?
さらに、欧州派遣の際、渋沢が詳細に書き綴った『航西日記』や『英国御巡幸日誌』には、1867年12月、シーボルトの案内で英国の中央銀行にあたるイングランド銀行などを視察したことが記録に残っている。
実は、この当時のイングランド銀行は、英国におけるフリーメイソンの大物、ロスチャイルド家の強い影響下にあった(この翌年にはロスチャイルド家当主の次男、アルフレッドがユダヤ系として異例の理事就任)。
また、政府公認の金の精錬所も同時に見学していたが、これもまたロスチャイルド家が英国の金市場を支配する拠点だった。
つまり、シーボルトがフリーメイソン、特にロスチャイルド家にゆかりの施設を重点的に案内していたことは記録から明らか。ここに英国のフリーメイソン(特にロスチャイルド家)と渋沢たちを繋ごうとするなんらかの意図があったと考えても無理はないだろう。
渋沢栄一らをフランスで待ち受けていた、もう一人のフリーメイソン?
渋沢とフリーメイソンを結び付けたもう一人の人物は、先に挙げた『航西日記』などでシーボルト以上に頻繁に名前が出てくる。
その名はポール・フリュリ=エラール、渋沢の伝記などでは、ヨーロッパ最新の金融システムや銀行の意義などを渋沢に教えたとされる、フランス人銀行家だ。
いわば、日本資本主義の父の師匠にあたる人物といえる。
しかし、このフリュリ=エラールも、きな臭い裏の顔があった。
そもそも徳川幕府と彼が結びついたのは、幕府方の軍艦を建造する横須賀造船所建設や幕府陸軍の武器弾薬輸入で資金のやり繰りを担ったからとされる。
要は銀行家であるとともに武器商人の一面もあったのだ。
渋沢栄一の師・フリュリ=エラールの知られざる一面とは
そして、フリュリ=エラールが渋沢ーフリーメイソン(特にロスチャイルド家)を繋いだキーマンとされる最大の理由が、彼がオーナー経営者だったフリュリ=エラール銀行にあった。
当時、この銀行はフランス最大の銀行だった「ソシエテ・ジェネラル」の支配下にあったのだが、このソシエテ・ジェネラルの基礎を築いた人物こそが、パリ・ロスチャイルド家の当主、ジェームズ・ド・ロスチャイルド男爵だったのだ。
(ただし、残念ながら渋沢がロスチャイルド男爵と会っていたという当時の記録はない。あるいは、明らかになっては危険すぎて、隠蔽されたのかもしれないが……)。
シーボルトを通じてロンドン・ロスチャイルド家と、フリュリ=エラールを通じてパリ・ロスチャイルド家と結びついた渋沢栄一。こうした事実をもとに
「渋沢はフリーメイソン(あるいはロスチャイルド家)の傀儡として日本経済の基礎をつくった」
「日本経済が秘密結社や国際金融資本の支配下にある原点は渋沢にある」
といった都市伝説が語られる。
しかし、そもそもフリーメイソンやロスチャイルド家は、渋沢を通じてどうやって日本経済を支配しようとしたのか? そして実際に渋沢が彼らの意を汲んで活動した証拠はどこにあるのか? 次回中編では、その点について紐解いていく。